森英二郎
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元サッカー選手の「森英次郎」とは別人です。

もり えいじろう
森 英治郎
1920年の写真、満33歳。
本名同
別名義森 英次郎
森 英二郎
生年月日 (1887-11-01) 1887年11月1日
没年月日 (1945-11-28) 1945年11月28日(58歳没)
出生地 日本 神奈川県横浜区境町(現在の同県横浜市中区日本大通
死没地 満洲国 間島省間島市(現在の中華人民共和国吉林省延吉市
職業俳優
ジャンル新劇劇映画現代劇サイレント映画トーキー
活動期間1909年 - 1944年
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森 英治郎(もり えいじろう、1887年11月1日 - 1945年11月28日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5]。本名同じ[1][2][3][4][5]。森 英次郎、森 英二郎の名を使用することもあった[1][2][3][4][5]坪内逍遥門下の新劇俳優であり、坪内の「文藝協会」から、「舞台協会」「同志座」を結成、日活向島撮影所の新劇化に協力したことで知られる[1][2]
人物・来歴ハムレット』(訳坪内逍遙、1911年)出演時、満23歳。奥が森、左が土肥春曙のハムレット。

1887年明治20年)11月1日神奈川県横浜区境町(現在の同県横浜市中区日本大通)に生まれる[1][2]。同地は輸出入業者の集う街であり、森の生家は輸入洋品店であった[1]

東京府東京市本郷区(現在の東京都文京区)にある旧制・京華中學校(現在の京華高等学校)に進学するも、文学を志して親族の反対を受け、4年次終了後に中途退学する[1][2]タイピストとして生計を立てつつ、坪内逍遥門下の水口薇陽(1873年 - 1940年)が主宰する東京文士劇協会に参加、初舞台を踏む[1]。1909年(明治42年)5月、坪内が設立した文芸協会演劇研究所の補欠試験に合格し、第1期生になる[1][2]。同期には、同年4月に入所した小林正子(松井須磨子)、佐々木百千万億(佐々木積)、武田正憲林和、柳下富司、伊藤理基、掬月晴臣、日高清、久里四郎、志田徳三、三田千栄子(山川浦路上山草人の妻)、五十嵐吉野の12名のほか、森とおなじく補欠募集で入所した上山草人、河竹繁俊、横川唯治(山田隆也)、加藤精一らがいた[1]。1911年(明治44年)4月に研究所を卒業し、「文藝協会」に所属する[1][2]。同年5月には、帝国劇場での同協会第1回公演として、ウィリアム・シェイクスピアの悲劇『ハムレット』(訳坪内逍遙)の全幕上演が行なわれ、ハムレットの親友「ホレイショー」役を演じて、当たり役とする[1][2][6]。1913年(大正2年)5月31日、同協会を抱月が退会、須磨子が諭旨退会処分で去って協会は同年7月に解散、森は、佐々木、横川、加藤、吉田幸三郎、岡田嘉子らとともに「舞台協会」を設立する[1][6]。同年11月28日、帝国劇場での同協会第1回公演として、ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『悪魔の弟子(英語版)』(訳舞台協会)、ヴィルヘルム・フォン・ショルツ(ドイツ語版)の戯曲『負けたる人』(訳森?外、 Der Besiegte, 1899年)を上演した[6][7][8]。『ヴェニスの商人』の上演ではシャイロック役を演じ、好評を得る[1]

1920年(大正9年)11月、従来、新派劇を手がけてきた日活向島撮影所が、女形を排し女優を導入した新劇による「第三部」を創設、その主演俳優として、同撮影所に招かれる[1][2][3][4]。向島第三部第1回作品として、田中栄三が監督した『朝日さす前』に、坪内門下だった林幹や、女優の酒井米子中山歌子らとともに出演し、同作は同年12月31日に正月映画として、徳川夢声が弁士を務める赤坂の洋画専門館「葵館」を中心に公開された[1][2][3][4][5][9]。第三部創設による改革は興行的には効果はなく、日活は新派傾向に戻すことを決め、この決定に憤慨した森は、1921年(大正10年)5月16日に公開された『見果てぬ夢』(監督田中栄三)に主演したのを最後に、同撮影所を辞した[1][3][4][5]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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