森脇 浩司2021年9月7日、ほっともっとフィールド神戸にて
基本情報
国籍 日本
出身地兵庫県多可郡黒田庄町(現:西脇市)
生年月日 (1960-08-06) 1960年8月6日(63歳)
身長
体重178 cm
78 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手、三塁手、二塁手
プロ入り1978年 ドラフト2位
初出場1981年4月15日
最終出場1995年6月4日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
兵庫県立社高等学校
近鉄バファローズ (1979 - 1983)
広島東洋カープ (1984 - 1987)
南海ホークス
福岡ダイエーホークス (1987 - 1996)
監督・コーチ歴
福岡ダイエーホークス
福岡ソフトバンクホークス (1997 - 2009)
読売ジャイアンツ (2011)
オリックス・バファローズ (2012 - 2015)
中日ドラゴンズ (2017 - 2018)
福岡工業大学
千葉ロッテマリーンズ (2021 - 2022)
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森脇 浩司(もりわき ひろし、1960年8月6日 - )は、兵庫県多可郡黒田庄町(現・西脇市)出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・監督、解説者。愛称は「モリさん」[1]。
選手引退後、福岡ダイエー・ソフトバンクホークスコーチ、読売ジャイアンツコーチ、オリックス・バファローズ第26代監督、中日ドラゴンズコーチ等を歴任、2019年より、福岡工業大学の特別コーチを務め[2]、2022年は千葉ロッテマリーンズ一軍ヘッド兼内野守備コーチを務めていた。 社高校1年次の1976年から遊撃手として、強肩で遠投をさせれば130mを投げ、この時グラウンドにいた近鉄バファローズのスカウトが仰天して「カラスの中にスワンがいる」と言ったほどであった[3]。 1978年のドラフト2位で近鉄バファローズに指名され、入団した。 3年目の1981年に一軍初昇格し、遊撃手として13試合に先発出場した。57試合に出場して打率.316を記録した。高校時代からつけ始めていた野球日記を入団後も書き続け、すでに7冊目に達し、夜はテッド・ウィリアムズの「バッティングの科学」に読み更けるなど研究熱心さも人一倍であった。女性ファンからのファンレターの数は梨田昌孝と双璧で、ニックネームは「第二の梨田」であった[4]。 1982年は、開幕から9番・遊撃手に抜擢されるが、打撃面で伸びず夏場には石渡茂に定位置を譲った。6月23日に、右太腿肉離れを起こし二軍落ちした。前年9月から肩の痛みがあったが、レギュラーの座を手放したくないために黙々と痛みに耐えながらプレーを続けたが、右肩は少し動かすだけでも痛むなど体は悲鳴を上げた。 1983年に復活したが、6月19日の南海戦(大阪)で、併殺のため二塁のベースカバーに入った瞬間に滑り込んだ走者のジム・ライトルと接触し、膝靭帯を断裂した。 1984年、加藤英司・大原徹也との2対2の交換トレードで福井保夫と共に広島東洋カープへ移籍した。 同年は6試合の出場に留まり、1987年シーズン途中に永田利則と共に西山秀二との交換トレードで南海ホークスへ移籍した。 当時の南海は小川史、中尾明生、湯上谷宏、坂口千仙など似たタイプの選手がレギュラー争いをしていた。5月から主に遊撃手として起用され、同年は65試合に先発出場した。 「福岡ダイエーホークス」となった1989年には、二塁手、三塁手を兼ねるユーティリティープレイヤーとして活躍し、自己最多の70試合に先発した。 以降は守備固め要員として起用され、1990年頃から藤本博史・湯上谷・小川との4人(4人とも名前読みが『ひろし』)で内野を守ることが度々あった。 1993年は、藤本が一塁手に回り、その後継として開幕から三塁手として起用されるがレギュラー確保とはならず、1994年の松永浩美の移籍入団以降は出場機会が減り、1996年限りで現役を引退した。 引退後はダイエー→ソフトバンクで二軍野手育成コーチ(1997年)、二軍内野守備・走塁コーチ(1998年 - 1999年)、一軍内野守備・走塁コーチ(2000年 - 2002年, 2005年, 2007年 - 2008年)、二軍監督兼内野守備・走塁コーチ(2003年 - 2004年)、一軍チーフ兼内野守備・走塁コーチ(2006年)、一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチ(2009年)を務めた。 ノックの技術は球界屈指とされ[6]、当時の監督王貞治も「ノックだけで飯が食える」と評している[7][8]。あるテレビ番組のコーナーで「ここ(通常の右打席)から打って三塁線のフェアーの打球を3バウンドさせ外野フェンスの○△×□社の広告の“×”の文字に当てて下さい」と注文された森脇は、いとも簡単に言われた通りのノックを披露してみせた。 2006年シーズン開幕前、王がWBC日本代表監督としてチームを離れていた間と、7月6日からは王の胃癌手術に伴う休養のため、監督代行を務めた。リーグ優勝を逃したことについて、「残念」「罪の意識すらある」と語った。あくまでも肩書は監督代行(チーフ)兼内野守備・走塁コーチであったため、王監督休養後も攻撃時には三塁ベースコーチボックスに立ち指揮していた。 2007年からは秋山幸二の一軍総合コーチ就任に伴い一軍内野守備・走塁コーチに専念し、2009年は監督に昇格した秋山の下で一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチを務めたが、11月24日に「組織の活性化」を理由に大石大二郎と入れ替わる形で解任された[10][11][12]。
経歴
プロ入り前
近鉄時代
広島時代
南海・ダイエー時代
引退後
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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