森立之
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森 立之(もり りっし、文化4年11月25日1807年12月23日) - 明治18年(1885年12月6日)は、江戸時代後期から明治時代にかけての医師書誌学者。通称は養竹。名は立之。字は伊織・養眞・立夫。号は枳園[1]目次

1 生涯

2 編著

3 脚注

4 参考文献

5 外部リンク

生涯

江戸北八丁堀竹島町に生まれる。父・恭忠は備後福山藩主阿部正倫正精の2代に使える医師だった。文化14年(1817年)に渋江抽斎の弟子となり、文政6年(1823年)から抽斎の師である伊沢蘭軒に従う[2]。このころから歌舞伎の舞台を観るだけではなく、声色を使うことを好むようになり、天保8年(1837年)にはついに俳優と一緒に舞台で演じているのを上役に知られ、禄を失い阿部家を放逐され、家族を連れて夜逃げをする羽目になった[3]。按摩や接骨・獣医をしながら放浪し、相模大磯に落ち着き約12年を過ごす。その間に『遊相医話』や『桂川詩集』を著わし、また『神農本草経』『素問霊枢』『傷寒論』『金匱要略』『扁鵲倉公伝』などにそれぞれ攷註を行い、本草学に精通しているという評判が高まったため、嘉永元年(1848年)に多紀家の躋寿館に入って『千金方』校刻を手伝う内命を下された[4]。同じ年の5月には福山藩主の阿部正弘より帰藩が許される。安政元年(1854年)、『神農本草経攷註』が刊行され、医学館の講師に任ぜられたが、同年末には同館の『医心方』校刊事業にも助校を命ぜられた。安政5年(1858年)、将軍家茂に謁見が許され、御目見医師に列せられた。明治元年(1868年)、藩主・阿部正方に従って福山に移り、明治5年(1872年)に東京に戻り文部省十等出仕となる。その後は医学校・工学寮など職を転々としたが、明治12年(1879年)に和漢方医を結集して温知社を組織し『温知医談』を月刊発行した。明治18年、八丁堀水谷町に没す。享年79歳、音羽洞雲寺に葬る。諡は長寿院訪古枳園居士。
編著

『経籍訪古誌』

脚注

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^ 長澤規矩也・監修『漢文学者総覧』汲古書院、1979年、305頁。
^ 森 1979, p. 55.
^ 森 1979, p. 62.
^ 森 1979, p. 80.

参考文献

森, ?外『?外選集 第六巻』岩波書店、1979年。

外部リンク

森立之研究会

典拠管理

CiNii: DA04961700

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