日本の政治家森 矗昶もり のぶてる
森矗昶の肖像写真
生年月日1884年10月21日
出生地 日本 千葉県勝浦市
没年月日 (1941-03-01) 1941年3月1日(56歳没)
死没地 日本 東京府東京市麹町区紀尾井町
前職昭和電工代表取締役社長
所属政党立憲政友会
称号従五位
勲四等瑞宝章
配偶者森いぬ
親族弟・岩瀬亮
長男・森曉
四男・森清
五男・森美秀
長女・安西満江
森 矗昶(もり のぶてる、1884年〈明治17年〉10月21日 - 1941年〈昭和16年〉3月1日)は、日本の実業家、森コンツェルンの創設者、衆議院議員。千葉県出身。従五位勲四等。元衆議院議員・岩瀬亮は弟。息子に、政治家の森曉・森清・森美秀、女婿に安西正夫(長女・満江の夫)・三木武夫(次女・睦子の夫)・田中覚(三女・三重子の夫)がいる。森英介(美秀の息子)・安西孝之(満江の息子)・高橋紀世子(睦子の娘)・松崎哲久(三重子の息子)は孫にあたる。
少年時代からの実学で知識と技術を体得し、時にヤマカンともよばれる事業に対する嗅覚によって化学工業の先達となったたたき上げの実業家であった。また何度となく輸入製品との競争に泣かされたことから、国産主義者でもあった。野口遵、鮎川義介などと共に、当時「財界新人三羽烏」として並び称されていた[1]。 明治31年(1898年)に高等小学校を卒業すると、矗昶は為吉が新たに始めた「かじめ焼き」事業を手伝うことになる。これは海岸でとれる海藻のカジメを焼いてそこからヨードを製造するものである。矗昶は中学への進学を志していたが、明治33年(1900年)に満都が産褥で逝ったために断念する。翌年、勝浦の池平粗製沃度工場の見習い工となって技術を習得し、同じ年に稼働をはじめた為吉の粗製沃度工場を任された。昼間はカジメの買い付け、夜はかじめ焼きと、寝る間もないほど働き詰めた。明治37年(1904年)日露戦争が始まるとヨードの需要が高まり、一方で矗昶は徴兵検査乙種合格であったため出征を免れ、ヨード製造事業は順調に進展した。 明治38年(1905年)3月13日に、総野村(現在は勝浦市)杉戸の豪農、山口家から長女いぬを妻に迎える。このときの仲人が隣家の安西直一(後に千葉県会議長)だった。いぬは、矗昶の妹いうが千葉高女に通っていたときの友人であったが、いぬはそのことを知らされずに婚礼に臨んでいた。明治40年(1907年)に生まれた長男の曉をはじめとして、満江、實(夭逝)、茂(戦死)、清、睦子、美秀、禄郎
来歴・人物、母・満都の長男として生まれる。森輝、亮という2人の弟と、ひみ、いう、深雪、花乃という4人の妹がいる。為吉は網元の傍ら海産物の加工仲買や雑貨の販売など幅広く家業を営む一方、学問に親しみ政治に関心を寄せる知識人でもあった。
ヨード製造
明治41年(1908年)12月、総房水産株式会社(資本金5万円)を設立し、営業部長となる。日露戦争の戦費調達のためヨードの副産物の食塩が専売制になったうえ、日露戦争による需要がおさまったことで、政府はヨード業者の統制を目的に合併を推奨してきた。そこで矗昶と安西直一は、この機に乗じて千葉県内のヨード業者を半ば強引に大同団結させたのである。社長に森為吉、専務に安西直一が就いたが、実務は矗昶が取り仕切り後に常務となった。経営は順調で、第一次世界大戦による好況をうけて大正6年(1917年)には資本金150万円、海外に製品を輸出するまでに成長したが、翌年大戦が終結すると反動不況で一転経営危機に陥り、翌年東信電気株式会社に吸収合併される。