もりた よしみつ
森田 芳光
生年月日 (1950-01-25) 1950年1月25日
没年月日 (2011-12-20) 2011年12月20日(61歳没)
出生地 日本・神奈川県茅ヶ崎市
血液型B型
職業映画監督
活動期間1971年 - 2011年
配偶者三沢和子(映画プロデューサー)
主な作品
映画
『の・ようなもの』
『家族ゲーム』
『それから』
『(ハル)』
『失楽園』
『39 刑法第三十九条』
『阿修羅のごとく』
『間宮兄弟』
『武士の家計簿』
受賞
日本アカデミー賞
最優秀監督賞
2004年『阿修羅の如く』
ブルーリボン賞
監督賞
1984年『家族ゲーム』
2004年『阿修羅の如く』
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
日本映画監督賞
1984年『家族ゲーム』
1986年『それから』
脚本賞
1984年『家族ゲーム』
1987年『ウホッホ探険隊』毎日映画コンクール
監督賞
2000年『39 刑法第三十九条』
脚本賞
1984年『家族ゲーム』ヨコハマ映画祭
作品賞
1982年『の・ようなもの』
1984年『家族ゲーム』
2000年『39 刑法第三十九条』
監督賞
1984年『家族ゲーム』
2000年『39 刑法第三十九条』
脚本賞
1984年『家族ゲーム』
1987年『そろばんずく』『ウホッホ探険隊』
1997年『(ハル)』
新人監督賞
1982年『の・ようなもの』#受賞歴を参照のこと。
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森田 芳光(もりた よしみつ、1950年1月25日 - 2011年12月20日)は、日本の映画監督、脚本家。
1981年に『の・ようなもの』で、長編映画監督デビューした。以降、シリアスなドラマから喜劇、ブラックコメディー、アイドル映画、恋愛映画、ホラー映画、ミステリ映画と幅広いテーマを意欲的に取り扱い、話題作を数多く発表した。 母親の実家のある神奈川県茅ヶ崎市にて生まれ、東京都渋谷区円山町で育つ。実家が料亭で、芸者や客を見ていて、子ども心に「人間っていうのは体裁ばかりなんだ」と思っていたという[1]。小さい頃から祖母に連れられて寄席に通った。落語評論家の安藤鶴夫に心酔し、落語を演じるのではなく、論じたかった[2]。学校時代は東宝芸能学校
生涯
生い立ち
日本大学櫻丘高等学校では新聞部に在籍。映画評を担当することになって見たデヴィッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』に感動し、映画の魅力に開眼。新宿文化やアメリカンセンターなどに通い、当時隆盛だった実験映画の洗礼を受ける。 日本大学芸術学部放送学科に進学し、自主映画製作を開始する。自主制作の作品としては『映画』(1971年)[3]、『遠近術』(1972年)[3]、『水蒸気急行』(1976年)[4]、『ライブイン茅ヶ崎』(1978年)[4]があり、『ライブイン茅ヶ崎』は第2回自主製作映画展1978一般公募部門の入選作品に選ばれている[5]。 その一方で、全共闘運動に参加するほか、落語研究会に所属(同研究会の先輩には、のちに放送作家となる高田文夫とプロの落語家となった古今亭右朝がいた)。 日芸を卒業してから、駅前の雑居ビルにある名画座でアルバイトしていたが、26歳の時に友人の紹介でひとつ年下の三沢和子とクリスマスの日にめぐり会う。その日のうちに離れがたい絆を感じ、1週間後には円山町の実家の料亭の空き部屋で同棲していた。いわば「直感婚」だった。軽井沢の教会で結婚式を挙げるのにかかった5万円の費用は森田が競馬で稼いだ[6]。 1981年、若い落語家を主人公とした『の・ようなもの』を、実家を抵当に入れた借金で製作してデビューした。題名は、3代目三遊亭金馬の落語『居酒屋』に出て来る「のようなもの」というフレーズから採られた。続く『シブがき隊 ボーイズ & ガールズ』は、初の大手配給作品ではあるが、予算、期間、内容とも厳しい枷がはめられたアイドル映画であり、これをきっちりとやり終えたことでプロの監督としてのスキルと評価を獲得する。 1983年、松田優作主演の『家族ゲーム』を発表する。家庭をシニカルに、暴力的に描いた、出色のブラックコメディーである。家族全員が長い食卓に、画面に向かって横一列に並んで座る何とも奇妙な食事場面など、何気無い日常の風景を非日常的に描写した、人を食った演出が評判となった。キネマ旬報ベストテン1位など同年の主要映画賞を多く受賞、一部の高評価にとどまっていた前作から大きく飛躍して、新世代の鬼才として広く注目を集める。 1984年、丸山健二原作、沢田研二主演の『ときめきに死す』を経て、薬師丸ひろ子主演の『メイン・テーマ』が大ヒットした。
自主映画の製作
商業映画の監督へ