森田 童子
生誕 (1952-01-15) 1952年1月15日[1][2][3][4]
出身地 日本・東京都
死没 (2018-04-24) 2018年4月24日(66歳没)
ジャンルフォーク、J-POP
職業シンガーソングライター
活動期間1973年 - 1983年
レーベルポリドール
(1975 - 1979)
ワーナー・パイオニア
(1980 - 1983)
事務所小澤音楽事務所
海底劇場
森田 童子(もりた どうじ、1952年[1][2][3][4]1月15日[4] - 2018年4月24日[5][6][7][8])は、日本の女性シンガーソングライター。本名は非公表[5][6]。
1975年、NHKラジオ『若いこだま』に出演時、芸名について「笛吹童子が由来」[9]と語ったが太宰治の小説「おしゃれ童子」から取ったという説が有力である[要出典]。 1975年10月、シングルレコード『さよなら ぼくの ともだち』で、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック合同会社)からメジャーデビュー。1980年、ポリドールからワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)へ移籍。 1975年から1983年までにアルバム7枚、シングル4枚をリリースし、同年のアルバム『狼少年 wolf boy』と、1984年の新宿ロフトでのライブを最後に音楽活動を休止する[1][9]。 2018年4月24日未明、心不全のため[5]自宅で死去[6][8][7]。66歳没。遺族から日本音楽著作権協会(JASRAC)に連絡があり[5]、同年6月1日発行の日本音楽著作権協会(JASRAC)会報に訃報が掲載されたことで死去が明らかになった[5]。活動休止後は主婦として暮らしていた[7]。音楽関係者の話として「体調を崩して2017年から入退院を繰り返し、退院後間もなく逝去した」「公表するつもりはなかった」と報道された[8]。 カーリーヘア(しかもこれが地毛という証拠もカツラという証拠も無かった。後述)にサングラス、男性的な服装というスタイルが特徴で、レコードジャケットはもちろんコンサートなどでも素顔を見せることはなかった[1]。森田童子は芸名であり、本名は非公開。加えて実生活についてもほとんど公表せず、作詞した歌詞の内容もありのままの実体験ではなく願望を投影したものであるとしており、普段も寡黙で、作品に生活感を滲ませることを避けていた[1]。出身地や生年月日、家族構成などの個人情報を明かすことも少なかったため、本人に関する情報が非常に乏しい[2]。 2021年の12月に発刊された「なかにし礼」著作の「血の歌」にて森田童子は1953年1月15日生まれで、なかにし礼の姪っ子(兄の娘)であると公表された。 出身地は東京都とされているが[6]、青森県とする資料もある[3]。北海道出身の詩人・笠井嗣夫は、コラム「『森田童子』あるいは共犯幻想のこちらがわ」で、1980年11月28日夜に札幌市教育文化会館大ホールで開催された森田童子コンサートについて書き、会場で主催者から配布されたチラシに掲載された「森田童子ラフスケッチ」では「1952年に青森で生まれ、1968年 - 1970年の学園闘争の最中に高校生活を送り、友人が逮捕されたことをきっかけとして、1970年に高校を中退[1][9]。1972年の夏、ひとりの友人の死をきっかけに歌いはじめた」と紹介されていたことを記している[3]。この亡くなった友人をモチーフにした曲が、デビュー曲となる「さよなら ぼくの ともだち」である。
概要
関連人物
木森敏之 - アレンジャー:『GOOD BYEグッドバイ』
石川鷹彦 - アレンジャー:『マザー・スカイ』『狼少年 wolf boy』
J.A.シーザー - アレンジャー:『マザー・スカイ』
木田高介 - アレンジャー:『A BOY ボーイ』
若草恵 - アレンジャー:『A BOY ボーイ』
千代正行 - アレンジャー:『ラスト・ワルツ』『夜想曲』
比呂公一 - アレンジャー:『夜想曲』
高梨豊 - 写真家:ジャケット写真撮影
丸尾末広 - イラストレーター:『狼少年 wolf boy』インナーイラスト担当
劇団黒テント - 当時「68/71黒色テント」としてライブ活動などに協力
平野悠 - ライブハウス「ロフト」経営者
前田亜土
高取英 - 劇団月蝕歌劇団主催。夫の前田亜土ともども親交があったと言われる
かわさきひろゆき - 森田童子狼少年コンサート 前進座劇場や新宿ロフトにて朗読をしていた少年。現在は映画監督
なかにし礼 - 叔父(森田の父である中西正一の弟)[10]
略歴
人物