森田 思軒
明治期の思軒
ペンネーム埜客、羊角山人、白蓮庵主人、紅芍園主人など
誕生森田 文蔵(文藏)
(1861-08-26) 1861年8月26日
備中国小田郡笠岡(現・岡山県笠岡市)
死没 (1897-11-14) 1897年11月14日(36歳没)
墓地世尊寺
職業新聞記者・翻訳家・漢学者
言語日本語
国籍 日本
教育岡山興譲館
最終学歴慶應義塾
大阪慶應義塾
徳島慶應義塾
(現・慶應義塾大学)
活動期間1882年 - 1897年
ジャンル小説
主題翻訳・漢文
文学活動周密文体
森田 思軒(もりた しけん、1861年8月26日(文久元年7月21日)[注 1] - 1897年(明治30年)11月14日)は、日本のジャーナリスト・翻訳家・漢文学者。本名は文蔵。別号に埜客(やきゃく)、羊角山人(ようかくさんじん)、白蓮庵主人(びゃくれんあんしゅじん)、紅芍園主人(こうしゃくえんしゅじん)など。 1861年(文久元年)、備中国小田郡笠岡(現・岡山県笠岡市西本町)に森田節斎の子として生まれる[1]。1874年(明治7年)、大阪慶應義塾に入塾し、1875年(明治8年)に徳島慶應義塾
略歴
『報知新聞』分裂の際に退社し、1891年(明治24年)に『国会新聞』に入社して1895年(明治28年)の廃刊まで社員となる。この間、同紙のほかに『太陽』や『少年世界』等にも執筆。続いて『萬朝報』に高待遇で迎えられ、黒岩涙香とともに、明治期に「翻訳王」の異名をとるほどに活躍した[2][3]。森田は多くの翻訳書において、従来の乱訳語調を一新し「周密文体」という独自のスタイルを生み、我が国近代文学史上に大きな足跡を残している。
門下に原抱一庵などがいる。また、1907年(明治40年)に『思軒全集』が刊行される。解説を森?外、徳富蘇峰、幸田露伴らが著している。
笠岡市では森田の業績を記念して「森田思軒顕彰会」が作られ、1968年(昭和43年)に生誕百年を記念して、同市に「思軒森田文蔵生誕之地碑」が建立された。笠岡市立図書館には「森田思軒顕彰コーナー」がある[5]。
著作
単著
森田文蔵『頼山陽及其時代』民友社〈十二文豪 第11巻〉、1898年5月。NDLJP:782180。
共著
松葉卓爾(鶴巣) 編『西俗雑話』森田文蔵 刪潤、矢野文雄 閲、成文堂、1887年10月。NDLJP:767913。
森田思軒 著「昔し昔し」、高橋省三 編『少年雅賞(しょうねんがしょう)』学齢館、1893年5月19日。NDLJP:1919756/24。
ビュールヴェルレーヌ 著「大東号航海日記」、民友社 編『国民小説』 第1巻、森田思軒 訳、民友社、1890-1896。NDLJP:886334。
チャールズ・ディッケンス 著「伊太利の囚人」、民友社 編『国民小説』 第2巻、森田思軒 訳、民友社、1890-1896。NDLJP:886334。
森田思軒 著「羅馬人叢話」、春陽堂 編『青すたれ』春陽堂、1901年1月。NDLJP:885252。
翻訳書
ジュールー・ヴェルーヌ『鉄世界』森田文藏 訳述、集成社、1887年9月。NDLJP:879153。
アプレイウス『金驢譚(きんろものがたり) 希臘異聞(ぎりしあいぶん)』不語軒主人 訳、文泉堂、1888年7月。NDLJP:896810。
アプレイウス『金驢譚(きんろものがたり) 希臘異聞(ぎりしあいぶん)』不語軒主人 訳、日吉堂、1891年10月15日。NDLJP:896811。 - 表紙の書名:『魔術』。
ユーゴー『探偵ユーベル』森田思軒 訳、民友社、1889年6月19日。NDLJP:896690。
ヴヰクトル・ユーゴー『探偵ユーベル及クラウド』森田思軒 訳(増補3版)、民友社、1891年10月。NDLJP:897042。
ジュルー・ヴェルーヌ『 大叛魁 (だいはんかい) 新小説』森田思軒 訳、和田篤太郎、1890年。NDLJP:987876。
ジュール・ヴェルーヌ『瞽使者(めくらししゃ)』 上、森田思軒 訳、報知社、1888年。NDLJP:876666。 - 巻頭・表紙には羊角山人訳述、思軒居士刪潤と記載。
ジュール・ヴェルーヌ『瞽使者(めくらししゃ)』 前編、森田思軒 訳(5版)、国民書院、1904年10月21日。NDLJP:876668。
ジュール・ヴェルーヌ『瞽使者(めくらししゃ)』 下、森田文藏 訳、報知社、1891年11月2日。NDLJP:876667/1。 - 巻頭・表紙には羊角山人訳述、思軒居士刪潤と記載。
ジュール・ヴェルーヌ『瞽使者(めくらししゃ)』 後編、森田思軒 訳(5版)、国民書院、1904年11月19日。