もりた まさかつ
森田 必勝
生誕森田 必勝
1945年7月25日
日本・三重県四日市市大治田町905番地(現・大治田2丁目-7-21)
死没 (1970-11-25) 1970年11月25日(25歳没)
日本・東京都新宿区市谷本村町1番地(現・市谷本村町5-1)
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地
死因切腹、頸部割創による離断
遺体発見市ヶ谷駐屯地東部方面総監室
墓地三重県四日市市大治田
記念碑「三島由紀夫・森田必勝烈士顕彰碑」
(松江日本大学高等学校玄関前)
国籍 日本
民族日本人
出身校早稲田大学教育学部国語国文学科
活動期間1968年 ? 1970年
団体民兵組織「楯の会」(前身は「祖国防衛隊」)
活動拠点 日本・東京都
身長167 cm (5 ft 6 in)
肩書き「楯の会」一期生・第2代学生長、第1班班長
任期1969年 - 1970年
前任者持丸博
敵対者反日主義、共産主義
親森田和吉(父)、森田たま(母)
家族森田治(兄)、富士子、高根、妙子(姉)
久美子(姪)、裕司(甥)
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森田 必勝(もりた まさかつ、自称読み:ひっしょう、1945年(昭和20年)7月25日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の政治活動家。三島由紀夫が結成した「楯の会」の第二代学生長。三島と共に憲法改正のための自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺した(詳細は三島事件を参照)。
三島の単なる伴走者や主従関係の「従」ではなく、むしろ森田必勝が「主」となり三島らを引っ張っていったのではないか、という見解もしばしば見受けられる[1][2][3][4]。 1945年(昭和20年)7月25日、三重県四日市市大治田町905番地(現・大治田2丁目7-21)に、父・森田和吉と母・たまの間に次男として誕生[5][6]。父・和吉(明治33年生)は、市内の国民学校・内部小学校の校長をし、母・たま(明治39年生)は女学校の代用教員をしていた[5][7][注釈 1]。 四日市が米軍のB29爆撃機による大空襲に見舞われ、防空壕に逃げ惑う日々の中で生まれた男児に両親は、日本は「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}必(まさ)に勝(か)つべし」という願いを込めて「必勝(まさかつ)」と名づけた[5][8]。必勝の上には、兄・治(昭和4年生)と、富士子(大正14年生)、高根(昭和9年生)、妙子(昭和11年生)の3人の姉がいた[5][7]。 1948年(昭和23年)1月、必勝が2歳半の時に父・和吉が結核で死去し、続いて3歳の誕生日の7月25日に母・たまが亡くなった[5][7]。幼い必勝は以後、兄と姉に育てられた。20歳上の長姉・富士子はすでに他家に嫁いでいたため、11歳上の次姉・高根と、9歳上の末姉・妙子が母親代りとなり、父親代りの16歳上の兄・治が行商のかたわら学業に励み、市内の南中学校の英語教師となって家計を支えた[5][注釈 2]。 1951年(昭和26年)4月、必勝は四日市市立河原田小学校に入学。友達から「まさかっちゃん」「まかやん」と呼ばれ、成績が優秀で野球選手を夢見る明るい子供だった[5]。しかし5年生になる年、兄・治が結婚したことに伴い、必勝は末姉・妙子と共に、群馬県渋川市の子宝の無い伯母(父の姉)・森もとの家へ預けられることになり、5年生の1学期に転校した[5]。
生涯
生い立ち