森田実
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その他の同名の人物については「森田実 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

盛田稔」あるいは「森田登」とは別人です。

もりた みのる
森田 実
生誕 (1932-10-23) 1932年10月23日
日本 静岡県伊東市
死没 (2023-02-07) 2023年2月7日(90歳没)
日本 東京都江東区[1]
国籍 日本
出身校東京大学工学部鉱山学科
職業政治評論家
肩書き東日本国際大学客員教授
配偶者有
公式サイトMORITA RESEARCH INSTITUTE CO.,LTD
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森田 実(もりた みのる、1932年昭和7年〉10月23日 - 2023年令和5年〉2月7日)は、日本政治評論家。株式会社森田総合研究所代表取締役。

妻の甥に医師民主党に在籍していた、元衆議院議員石森久嗣がいる。
来歴

静岡県伊東市出身。伊東西小、伊東北中、相洋高校を経て東京大学工学部鉱山学科卒業。尚、弟も東大出身であり、地元伊東市では名家として知られている。在学中に日本共産党に入党し、香山健一島成郎生田浩二青木昌彦らとともに全日本学生自治会総連合の指導部を形成した。破壊活動防止法反対闘争(1952年)、原水爆禁止運動(1955年)、砂川闘争1957年)、安保闘争1958年?1960年)などに携わる[2]。その後、日本共産党幹部と殴り合いを演じて共産党を除名されると、1958年、多くの学生党員らと共に共産主義者同盟(ブント)を結成し、主に労対関係の任に当たっていた。その後、日本評論社出版部長、『経済セミナー』編集長を経て、1973年からフリーの政治評論家として活動。東日本国際大学客員教授も務める。また、2015年6月に中国山東省を訪問し、山東大学より名誉教授の称号を贈られた。

2004年7月、著作本『公共事業必要論』の記念講演会を二階俊博が代表を務める自由民主党の派閥「新しい波」が主催し、「新しい波」から寄付も得た。アメリカ発の新自由主義に基づく構造改革路線をとった自由民主党を激しく批判しており、雇用・社会保障を重視した修正資本主義路線に戻すべきだと提言していた[3]小沢一郎政経研究会で講演したこともある[4]

2023年2月7日、悪性リンパ腫のため、東京都江東区のがん研究会有明病院で死去[5][1][6]。90歳没。その翌日には、日本経済新聞客員コラムニストの田勢康弘が亡くなった。2日続けて平成を代表する政治ジャーナリストがこの世を去ったことになる[7][8]
思想・主張

政治評論家として独立以来、ほぼ一貫して保守本流である自由民主党宏池会(旧宮沢派)を支持し、その「経済重視、平和外交」路線を支持してきたが、2003年前後の自由民主党や宏池会の分裂後は、自民党内でもそれまで親しくなかった亀井系を支持するなど方針転換するに至った。かつて、宮澤政権誕生前夜には、金丸信の暗躍を正面から批判する数少ない評論家として活躍し、当時、三塚派成立の際に中堅として尽力した小泉純一郎についても、「正直で信頼できる人間」「竹下派支配に立ち向かう信念ある政治家」「21世紀初頭の総理候補」と激賞している。宮澤支持や小泉への好意と、金丸・小沢一郎による「闇支配」批判の明確な姿勢は、当時の森田の著作(徳間書店『政変』など)でも明白である。

後の森田のスタンスは、経済においては「修正資本主義」に近く、政治・外交においては「平和主義」「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}反米[要出典]・対アジア協調」「9条護憲」の立場を採る。日中友好論者でもあり、台湾独立靖国神社公式参拝には反対している。


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