森永卓郎
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森山卓郎」あるいは「森永卓」とは別人です。

森永 卓郎マクロ経済学
生誕 (1957-07-12) 1957年7月12日(66歳)
東京都目黒区
国籍 日本
研究機関三菱UFJリサーチ&コンサルティング(1991年 - 2007年3月)
獨協大学(2006年4月 - 現在)
研究分野マクロ経済学
計量経済学
労働経済学
教育計画
母校東京大学経済学部経済学科卒業
学位経済学士
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森永 卓郎(もりなが たくろう、1957年昭和32年〉7月12日 - )は、日本経済アナリストエコノミストタレント獨協大学経済学部教授。専門は、マクロ経済計量経済労働経済教育計画オタク文化論など。愛称・通称は「モリタク」。

二男がおり、長男は証券アナリスト経済アナリスト実業家である森永康平。次男はITエンジニア。父は元毎日新聞社記者[注 1]獨協大学外国語学部講師の森永京一。
来歴

東京都目黒区出身。父親は、毎日新聞記者[1]。父のアメリカ合衆国留学と異動に伴い、小学1年時はボストン、4年時はウィーン、5年時はジュネーヴに赴任のため海外で過ごす帰国子女であった[2]。帰国後、中学生以後は新宿区高田馬場に転居[3]。1970年3月、目黒区立鷹番小学校、1973年3月 新宿区立落合中学校、1976年3月、東京都立戸山高等学校卒業。

1976年4月、東京大学教養学部理科二類入学、1980年3月、東京大学経済学部経済学科卒業後の同年4月 日本専売公社(現在の日本たばこ産業株式会社(JT))に入社。半年の研修終了後、管理調整本部主計課資金係[4] に配属[5]

1982年、日本経済研究センター総合計画局へ出向し、予測研究員として従事。1983年、同公社に復帰し、渋谷営業所に配属[5]

1984年、経済企画庁に出向し、労働力及び人的能力担当計画官付委嘱調査員[5]。森永はバブル時代の収入が少なかったと自身で回顧しており、この頃から雑誌への寄稿を開始[6]

1986年、JTに帰任し、製造本部製造企画課に配属。同年に三井情報開発総合研究所へ出向。1988年1月末付でJTを退職し、同年2月、三井情報開発株式会社総合研究所に移籍し、副主任研究員[7]。1991年、株式会社三和総合研究所に移籍、研究開発部副主任研究員、1992年、研究開発部主任研究員、1993年、研究開発第3部(経済・産業・社会政策)主任研究員に昇進。1997年から2000年まで、経済・社会政策室 室長兼主任研究員、同年、経済・社会政策部 部長兼主席研究員に異動。2002年、三和総研が東海総研と合併してUFJ総合研究所となり、同社経済・社会政策部 部長兼主席研究員。

1990年代後半頃から、『アクセスNOW』(テレビ神奈川)等の放送メディアにも出演し始めた際、「三和総研」の肩書きで放送メディアに出演する事に対して[注 2]、同社が難色を示したため、当時の番組のディレクターが「経済アナリスト」という肩書きを提案し、2020年4月時点でも使用している。その後、『ニュースステーション』の番組制作を担当していた芸能プロダクションであるオフィス・トゥー・ワンに所属[注 3]。なお、放送メディアに出演し初めた40歳当時の髪型はリーゼントであった。

再び所属会社が合併し、2005年に三菱UFJリサーチ&コンサルティングとなってから、同社からメディア取材時の稟議書提出を求められ、取材が1日10本ペースだったため、稟議をあげる手間に嫌気が差し、2004年から、父の京一が毎日新聞社退職後にかつて教鞭を取っていた[注 4][8]獨協大学の特任教授に就任し[2]、その後、特任で契約していた同大学との教員契約を優先し、2006年4月に経済学部教授に就任[6]。ただし、この時期も並行して2005年4月から同社客員研究員を2007年3月まで担当した。以後、大学教授の肩書きでタレント活動を行っている。
がん闘病

2023年12月27日、ステージ4の膵臓がんであると公表した[9]。ガン公表を進言したのは息子の康平である。週刊女性PRIMEのインタビューによると「当初、すい臓がんステージ4と医師に診断されたものの、「原発不明がん」の結論に至り、ゆえに大もとのがんをやっつける抗がん剤は見送りに。がん免疫療法薬のオプジーボを投与しつつ、自身の免疫機能を強化してがん細胞と戦っているということ」と語っており、ステージ4の膵臓がんではなく、原発不明がんであると明かした[10]

2024年4月9日に公開されたインタビューでは以下の通り説明している。体調は戻ったが、体力は戻らず階段は10段ずつしか上がれず、要介護3である。結婚後41年だが、妻とこれほど一緒にいたのは初めてで新婚気分である。働きづめで1日22時間労働の時もあり、働き方改革の真逆であった。7-8年前に糖尿病を患い、その後検査を続けていたが、体重の減少が顕著であったため、人間ドックを受けた2023年11月にがんが見つかり、最初の診断で「来年のサクラは見られない」と宣告された。その際、動揺はなかったが「どうやって後始末をつけるか」(書きかけの著書のことなど)を考えた。決断したのは「とにかく権力と戦う」ということであった。ペット検査での診断結果では膵臓のがんの原発が疑われたが、生体検査内視鏡ではどちらもがん細胞が見つかなかったものの、主治医の診断は「すい臓がんステージ4」であり、見えない原発巣が膵臓にあるだろうというものだった。セカンドオピニオン、サードオピニオンの結果も同じであった。12月末ごろにこの結果をもとに「アブラキサンパクリタキセル)」ほか2種類の抗がん剤を投与したが、直後急速に体調が悪化し、「三途の川が見えた」。点滴で「栄養剤らしきもの」を投与され、それが劇的に効いた。その後、アメリカ血液でのがん遺伝子パネル検査(遺伝子検査)の結果、95%はすい臓がんではないと判明。腫瘍マーカーでもすい臓がんの反応がなくなっていた。


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