.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}森本 雅樹(もりもと まさき)
生誕 (1932-05-14) 1932年5月14日
日本 東京府
死没 (2010-11-16) 2010年11月16日(78歳没)
日本 鹿児島県
研究分野電波天文学
研究機関東京大学
国立天文台
鹿児島大学
出身校東京大学
博士課程
指導教員畑中武夫
プロジェクト:人物伝
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森本 雅樹(もりもと まさき、1932年(昭和7年)5月14日 - 2010年(平成22年)11月16日)は、日本の天文学者。専門は、電波天文学。東京大学・国立天文台名誉教授。数学者・森本清吾と森本治枝の次男。実業家・教育家の深沢利重の孫。実業家の深沢雄象の曾孫。弟は西洋史学者の森本芳樹。 東京府(現・東京都)出身。畑中武夫の弟子で、日本の宇宙電波研究の定着に努力したことで知られており、弟子には海部宣男らがいる。国際天文学連合電波天文学委員会委員長を歴任。東京天文台時代より、師匠である畑中武夫より薫陶を受けた分かりやすい解説で、「森本おじさん」の愛称で呼ばれる。メディア出演や講演会なども多く、公報担当者としても良く知られている。電波天文学分野においては、いち早く短い波長の観測を提唱し、6mミリ波電波望遠鏡の建設においても主導的な役割を行う。野辺山宇宙電波観測所では、裏方であった赤羽賢司を支え、各地での講演会などを引き受けた。
人物
略歴
1951年:東京都立新宿高等学校卒業。
1955年:東京大学理学部物理学科卒業。
1957年:東京大学大学院理学研究科天文学専攻修士課程修了。
1958年:東京大学大学院博士課程中退、東京天文台助手に就任。
1965年:東京天文台講師就任。同年2月、学位論文「On the physical conditions in the corona above an active region referring to the radio observations(電波観測を通してみた太陽活動領域上空のコロナの物理的状態について)」により、理学博士(東京大学)。[1]
1973年:東京天文台助教授に就任。
1979年:東京天文台教授に就任。
1987年:「ミリ波天文学の開拓」により、海部宣男とともに仁科記念賞を受賞。
1988年:東京天文台が国立天文台に改組されたのに伴い、国立天文台教授となる。
1993年:国立天文台を定年退官し鹿児島大学理学部教授に就任。西はりま天文台公園公園長を兼任。東京大学・国立天文台名誉教授。
1998年:鹿児島大学を定年退官。鹿児島大学名誉教授。
2002年:西はりま天文台公園顧問。
2008年:西はりま天文台公園名誉顧問。
2010年:11月16日、心不全の為に鹿児島県の病院において死去[2]。叙正四位、瑞宝中綬章追贈[3]。
業績
国立天文台200メガヘルツ干渉計、国立天文台6mミリ波望遠鏡、野辺山宇宙電波観測所などの建設に尽力。
鹿児島大理学部物理学科に「宇宙コース」を設置した。
日本国内史上では初めて、完全公開型の大型天体望遠鏡施設を有する兵庫県立西はりま天文台公園の整備計画を行う。
国内におけるSETIの主導者の一人であり、鳴沢真也に影響を与えた。1978年、平林久