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森本 稀哲西武時代
(2014年4月2日、QVCマリンフィールドにて)
基本情報
国籍 日本
出身地東京都荒川区
生年月日 (1981-01-31) 1981年1月31日(38歳)
身長
体重185 cm
81 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手、一塁手
プロ入り1998年 ドラフト4位
初出場2000年8月2日
最終出場2015年9月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
帝京高等学校
日本ハムファイターズ
北海道日本ハムファイターズ (1999 - 2010)
横浜ベイスターズ
横浜DeNAベイスターズ (2011 - 2013)
埼玉西武ライオンズ (2014 - 2015)
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森本 稀哲(もりもと ひちょり、1981年1月31日 - )は、東京都荒川区出身の元プロ野球選手(外野手・内野手[1]、右投右打)、野球解説者、野球評論家、タレント。マネジメント契約先は、経営コンサルティング会社のCK PLAT(日本経営教育研究所)[2]。 小学生の時、汎発性円形脱毛症にかかり、髪の毛が抜けてしまう。その時サッカーをやっていたが、頭のことで目立ち、いじめられ、野球に転向したという[3]。 帝京高校では3年生の時に主将、遊撃手として第80回全国高等学校野球選手権大会に出場。3回戦の浜田高校戦で、8回表に和田毅からバックスクリーンへの同点本塁打を放つも敗退[注 1]。高校通算34本塁打。 1998年度ドラフト会議にて日本ハムファイターズから4位指名を受けて入団。当初は内野手[1](三塁手)だった。 上田利治監督最終年1999年は高卒新人として一軍昇格出来なかった。2年目の2000年にレギュラーシーズン初出場果たし大島康徳新監督の期待に応え初本塁打を記録。主に守備・代走要員で起用される。 2003年、監督に就任したトレイ・ヒルマンに「バーニー・ウィリアムスの再来」と評され、1番・中堅手で初めて開幕スタメン起用される。4月だけで4本塁打を打つが、その後は打撃が伸び悩み、阪神タイガースから移籍してきた坪井智哉にポジションを奪われ、守備・代走要員にとどまった。2005年には打撃が向上し、初の100試合出場で打率.264、7本塁打を記録した。 2006年は開幕スタメンの坪井の離脱などもあり4月下旬頃から1番・左翼手に定着し、自身初の規定打席に到達し、本塁打・打率ともに自身過去最高を記録。パシフィック・リーグ最多得点を記録し、ゴールデングラブ賞を初受賞した。7月、オールスターゲームに初出場して第2戦で本盗に成功した(2004年の同僚・SHINJO〈新庄剛志〉以来史上3人目)。10月、日本シリーズに初出場して当シリーズ最高打率を記録し、優秀選手賞を受賞した。 2007年、前年限りで引退した新庄の意向で同選手が着用していた背番号1を継承し[4]、主に新庄が就いていた中堅手に定着。シーズン終盤まで片岡易之(西武ライオンズ)と盗塁王のタイトルを争うなど(結果は片岡が獲得)、不動の1番打者として全イニング出場を果たし、2年連続のリーグ最多得点と初の打率3割を記録。24試合連続安打はリーグ歴代6位タイ、球団では大下弘と並び最多タイ記録。
目次
1 経歴
1.1 プロ入り前
1.2 日本ハム時代
1.3 横浜・DeNA時代
1.4 西武時代
1.5 現役引退後
2 人物
2.1 人物像
2.1.1 対人関係
2.1.2 プライベート
2.2 ファンサービス
3 選手としての特徴
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 年度別守備成績
4.3 表彰
4.4 記録
4.5 背番号
4.6 登場曲
5 関連情報
5.1 出演
5.1.1 テレビ番組
5.1.2 ラジオ番組
5.1.3 CM
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 関連項目
8 外部リンク
経歴
プロ入り前
日本ハム時代 日本ハム時代(2009年、札幌ドームにて)