森末慎二
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森末 慎二

国籍
日本
生年月日 (1957-05-22) 1957年5月22日(67歳)
生誕地岡山県岡山市
身長170 cm
種目体操競技
学歴日本体育大学
引退1985年

獲得メダル

体操競技
オリンピック
1984 ロサンゼルス男子 鉄棒
1984 ロサンゼルス男子 跳馬
1984 ロサンゼルス男子 団体
世界選手権
1983 ブダペスト団体総合


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森末 慎二(もりすえ しんじ、(1957年5月22日[1] - )は、日本の元体操競技選手。タレント体操選手としての現役時代、森末 真佐男(もりすえ まさお)と改名していた時期がある。岡山県岡山市出身。関西高等学校日本体育大学卒業。佐藤企画所属。森末企画代表取締役。

日本体操協会理事で、九州共立大学の特別客員教授。同大学で体操部を定期的に指導。2002年に西日本学生選手権で団体・個人とも優勝に導いた(体育学部のない地方大学としては全国初)。
来歴

小学3年生の頃に鉄棒に興味を持って毎日練習するほど夢中になり、その後中学3年生の頃から体操部に入部[2](子供時代について詳しくは後述)。岡山市の体操競技大会で優勝したことで声をかけられて関西高等学校、その後日本体育大学へと進学。大学卒業後は紀陽銀行体操部に所属し、1984年ロサンゼルスオリンピック(以下、ロス五輪)に出場。同大会の体操競技において、種目別・鉄棒決勝で10点満点(規定演技、自由演技もあわせると3回の鉄棒演技すべてで10点)を出し[3]金メダル[4]、また跳馬では銀メダルを獲得した。団体総合では銅メダルで、1つの大会での金、銀、銅の3つのメダルを持っている。また平行棒におけるオリジナル技モリスエ(後方棒上かかえ込み二回宙返り腕支持:難度D)の名でも知られる(鉄棒にも同名の技がある)。

1986年2月26日フジテレビ系バラエティ番組『笑っていいとも!』のレギュラーコーナー「テレフォンショッキング」に岸田智史の紹介で出演することになったが、当時のアマチュア規定により、バラエティ番組への無断出演は禁止されていたため、その日に引退を宣言し、出演を強行した[5]。所属会社であった紀陽銀行を退社し、引退後はテレビタレントとして『ドキド欽ちゃんスピリッツ』(TBSテレビ)で本格デビュー。

アッコにおまかせ!』(TBSテレビ)のコーナーだった「ダイエット体操」の振り付けも担当。このダイエット体操の振り付けをやったせいか、その後も体操の振り付けを依頼されることがあるが、そういった仕事は同じ体操を生業にしている佐藤弘道に渡している[注 1]。また、日本テレビ系列で放送された『雷波少年』(2001年1月)の企画“鉄棒少女”では、大車輪仮面として登場。作中で鉄棒少女こと羽田実加に技を体得する上で必要な体の動かし方などをアドバイスする形で支援し、羽田の大車輪を成功に導いた。

この他にも体操の経験と知識を生かして、体操を主体にした漫画ガンバ!Fly high』の原作を担当。この際、自らがモデルとなり演技の姿勢や成功例・失敗例などの参考写真を提供しており、担当者は「こんな事が出来る漫画原作者はいません」と述べている。また、歌が得意で、歌手としてジャズライブ活動やレコードリリース、ダンスの振り付けなどもしている。クラシアンのCMキャラクターは14年間務めた。

沖縄県好きが講じてその後宮古島に土地を購入し、現在(2024年1月時点)は1年の3分の2ほど滞在[5]。5年前より車エビを使った天丼が名物の居酒屋「みゃ?く商店」を経営している[5]
人物
子供時代

ゴム製造会社に勤める父、母、7歳上の兄の4人家族。子供の頃は目立ちたがり屋でやんちゃ坊主な性格で塀の上を走ったり、高い所から飛び降りたりするのが大好きだった。小学3年生の頃友達の大半が野球に興味を持つ中、一人だけ鉄棒に興味を持ち放課後の校庭で日が暮れるまで鉄棒を何度も回るのが日課となった。色々な技をやってみたくなったが教えてくれる人がいなかったため、「体操競技」という本の連続写真などを見て独学で勉強した。その後練習の甲斐あって5年生で大車輪、6年生で大車輪から宙返りをして着地できるようになったとのこと。ちなみにこの頃、母から「そんなに鉄棒が好きならオリンピックに出れば?」と言われたことで、初めてオリンピックという国際的なスポーツイベントがあることを知る[2]

中学に入学したが体操部がなかったこともあり部活には入らずその後も一人で鉄棒の特訓を続けた。そんな中、3年生の頃にたまたま日体大の体操部出身の教師が赴任し、森末が「体操部を作って下さい」とお願いしたことで体操部が創部された。後日行われた岡山市の体操競技会の鉄棒の種目で優勝し、体操の名門である関西高校から声をかけられてその後進学[2]
高校・大学時代

高校の体操部では大晦日や元日も部活というほど練習漬けの日々を送り、徐々に技の精度が上がって2年生の頃にレギュラー入りした。後日新人戦への出場が決まったが大会直前に本人の不祥事により出場のチャンスを逃した[注 2]。その後行われた岡山市の別の大会で優勝すると、新人戦に出場せずに彗星のごとく現れたことから、地元新聞に“関西高校の秘密兵器・森末選手”などと書かれたという[2]。 

2年生で国体に出場し個人の総得点ではトップになったが、国体は団体戦のみで個人の表彰はなかった。すると、いつもは厳しい顧問からどこかで買ってきたメダルを渡しながら「日本一だな」と声をかけられ、森末は「あの時はすごく嬉しかったです」と回想している[2]。 

その後特待生として日本体育大学に進学し、上京後は世田谷区内にある大学の寮生活となった。寮は4人部屋で上級生も一緒で上下関係が厳しかったため[注 3]練習以外の時間も気が休まる暇がなかったとのこと[2]

肝心の体操では、ケガに悩まされたため試合にはほとんど出られなかった。特に3年次に左足のアキレス腱を断裂し、1年にも及ぶ治療とリハビリを経て復帰するも直後に右足のアキレス腱を切ってしまった。この時はさすがに「“もう体操はやめろ”ってことかな」とかなり落ち込んだとのこと。この頃合宿所で知り合った大学の後輩である女性に精神的に支えてもらい大怪我から心身ともに立ち直り、それをきっかけに交際しその後結婚した[2]
新技「モリスエ」とロス五輪

大学時代は目立った活躍ができなかったにもかかわらず、当時日本一だった紀陽銀行体操部に幸運にも入ることができ、社会人選手となる。また、森末は当時日本の体操選手の中で20番目ぐらいの選手だったが、日本が1980年モスクワ五輪をボイコットしたことで森末より年上の選手たちが一気に引退した頃だった。また、離れ技の登場など体操界の潮流の変化も森末にとって有利に働き、次第に日本代表に選ばれるようになる[2]

日本代表になってからも日体大時代の恩師から指導を受けていたが、ある日「こういう技できる?」と技の動きを描いたイラストを見せられた。それが平行棒の新技である“モリスエ”で、当初見たことがない技に戸惑ったが練習を繰り返して感覚を身につけて何とか完成させた[2]

“モリスエ”を引っさげて1984年のロス五輪に出場し、先に行われた団体で銅メダルを獲得。しかし選手村に帰るバスの中で39度の熱があることに気づき、4日後の種目別の決勝までに治す必要があった。だがドーピング検査で引っかかる恐れがあったことから薬を飲むことができず、ひどい悪寒や嘔吐などでフラフラの状態が続いた。結局自力では熱が下がりきらず当日38度台だったが、それでも本番に臨むと不思議と集中でき[注 4]、10点満点の金メダルを獲得[注 5]。この時の表彰式について、「メダリスト紹介の時に『シンジモリスエ、ジャパン。パーフェクトスコア、テン!』とアナウンスされた。本当に嬉しくて自然と涙がこぼれた。あの感激は生涯忘れることはないでしょう」と後年語っている[2]


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