森昌子
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政治家の「森まさこ」、東洋史学者の「森雅子 (神話学者)」、あるいは小説家の「森真沙子」とは別人です。

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出生名森田 昌子
生誕 (1958-10-13) 1958年10月13日(65歳)
出身地 日本栃木県宇都宮市
学歴堀越高等学校卒業
ジャンル演歌歌謡曲
職業歌手女優
活動期間1972年 - 1986年
2001年 - 2019年[1]
レーベル徳間音楽工業
(1972年 - 1979年)
ポニーキャニオン[注 1]
(1979年 - 2008年)
おんがく工房
(2009年 - 2011年)
キングレコード
(2012年 - 2019年)
事務所ホリプロ(1971年 - 1986年 / 2006年 - 2008年3月)
おんがく工房(2008年4月 - 2019年12月31日 )
美空ひばり島倉千代子都はるみ園まり西田佐知子

森 昌子(もり まさこ、1958年昭和33年〉10月13日 - )は、日本の元歌手・元女優。本名、森田 昌子(もりた まさこ)。栃木県宇都宮市出身。

前夫は森進一。長男はロックバンド「ONE OK ROCK」のボーカリストであるTaka。次男は、テレビ東京に勤務するサラリーマン[2]、三男はロックバンド「MY FIRST STORY」のボーカリストであるHiroこと森内寛樹
来歴
生い立ちと学歴

父は
フタバ食品の元社員で、兼業農家だった。音楽好きで厳しく歌唱を教えられる。小学校4年生のとき東京に引っ越す。人見知りが激しくいじめにあったため、学校に行くふりをして、実際には行かないことが多かった。

宇都宮市立細谷小学校から港区立御田小学校に転校し卒業、港区立港中学校(現:三田中学校)から小野学園女子高等学校に進学後、堀越高等学校に転校し卒業した。

芸能界デビュー

1971年(昭和46年) 同年10月開始の日本テレビスター誕生!』(1971)に13歳で出場。初代グランドチャンピオンとなる。同番組には、昌子本人ではなく、激しい人見知りを克服してほしいと親戚の叔母が内緒で申し込んだもの。オーディション当日は、「洋服を買ってあげるついでだから」という口実で歌を歌わせた。

グランドチャンピオンになった結果、家に色々な芸能プロダクションが来て、昌子を芸能界に勧誘するようになった。父親は猛反対だったものの、家が貧しかったこと、母親の体が弱かったことから、家計の助けになるであろうと、昌子本人が父を説得して芸能界デビューした。ホリプロダクション(現ホリプロ)に所属。ホリプロに決めたのは、学業と両立させてくれるからだった。本名から"田"を抜いた芸名にしたのは硬い響きが取れるようにという判断[3]


1972年(昭和47年)7月1日、徳間音工から『せんせい』で歌手デビュー。当時のキャッチフレーズは、「あなたのクラスメート」と称された。その翌年デビューした同学年の山口百恵桜田淳子とともに「花の中三トリオ」と呼ばれる。

1973年第24回NHK紅白歌合戦に出演。なお、この中三トリオで最初にNHK紅白歌合戦に初出場を果たしたのは森であり、当時女性最年少の15歳での出場だった。なお、現在の女性最年少記録は芦田愛菜の7歳。

1973年(昭和48年)、松竹の『男じゃないか・闘志満々』で映画デビュー。同年、『としごろ』で主演に抜擢された。この年から開催された『ものまね王座決定戦』の初代チャンピオンとなる。

1975年(昭和50年)、『花の高2トリオ・初恋時代』で初めて山口・桜田と共演。また、この年3?4月に開催された、春の選抜高等学校野球大会第47回)に『おかあさん』が入場行進曲に選ばれ、森もセンバツ大会の開会式にゲスト出演した。

1977年(昭和52年)、堀越高校を卒業。同期卒業生には岩崎宏美岡田奈々池上季実子らがいる。

演歌歌手へ

1977年(昭和52年)の『
なみだの桟橋』以降、本格的な演歌歌手への道を歩み始め、『津和野ひとり』『彼岸花』(1978年・昭和53年)など、難易度の高い曲を歌いこなせる実力派へと成長。

1979年(昭和54年)、新宿コマ劇場で史上最年少女座長として『森昌子公演』を行う。

1981年(昭和56年)、第32回NHK紅白歌合戦では『哀しみ本線日本海』で出場9回目、23歳にして初の紅組トリを務める。

1983年(昭和58年)、『越冬つばめ』で第25回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。感激の余り受賞時に嬉し涙を流しながら歌い、その後の第34回NHK紅白歌合戦でも泣きながらの歌唱となる。このほか、TBSの金曜ドラマ『想い出づくり。』などドラマにも出演、女優としても活躍した。

1984年(昭和59年)、NHKみんなのうた』で、『海へ来て』を歌う。放送期間は、1984年(昭和59年)8月1日 - 9月30日(再放送は5回)。

1985年(昭和60年)、第36回NHK紅白歌合戦で初の紅組司会を、歌手出番では2度目の紅組トリをそれぞれ務める『愛傷歌』の歌唱前から感極まって号泣したため、途中で歌えなくなった。

1986年(昭和61年)10月1日に森進一と結婚。

1987年から、シングルレコードの新発売がなくなる。

2001年(平成13年)、「第52回NHK紅白歌合戦」に出場を機に、夫との「デュエット歌手」として芸能活動再開。

離婚

2005年2月、自宅で過呼吸の発作を起こし、意識を失って倒れ緊急入院した。薬物中毒と診断され、集中治療室にて胃洗浄を受けた。過換気症候群とも呼ばれる一種のパニック障害だった。集中治療室から一般病棟に移って間もなく、夫の進一が医師に退院を要請し、本人の同意の上で、わずか1日で退院した。このことが様々な憶測を呼び、ワイドショー週刊誌に不仲説が取り上げられて、後の離婚騒動に発展した。

同年3月、進一と別居。4月19日、離婚を発表。親権を長男が昌子側、次男と三男が進一側で持ち、養育権は3人とも昌子側とすることを進一が提案し、昌子が同意した。養育費は1人につき13万円として進一が負担した[4]

活動再開後

2006年3月27日、旧所属事務所のホリプロからソロの歌手として活動再開することを正式発表。4月、幻冬舎から初エッセー集『明日へ』を刊行。


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