森巌寺
所在地東京都世田谷区代沢3丁目27番1号
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度39分23.8秒 東経139度40分6.8秒 / 北緯35.656611度 東経139.668556度 / 35.656611; 139.668556
森巌寺(しんがんじ)は、東京都世田谷区代沢にある寺院。浄土宗に属し、1608年(慶長13年)に結城秀康の位牌所として建立された[1][2]。江戸時代には灸と針供養、そして富士講で名高い寺として知られ、多くの参詣者で賑わったと伝わる[1][2][6]。毎年2月8日に行われる「森巌寺の針供養」は、世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)に指定されている[4]ほか、この寺院の界隈は「淡島の灸の森巌寺」として1984年(昭和59年)に「せたがや百景」に選定されている[7][8][9]。2006年(平成18年)には、境内にあった富士塚の発掘調査が実施された[10]。 この寺院は、結城秀康の位牌所として1608年(慶長13年)に建立された[注釈 1][1][2]。1607年(慶長12年)、死期の迫った秀康はかねてより帰依していた越前国一乗寺の万世和尚に黄金を贈り、江戸に寺を建立するように遺言した。万世和尚は年老いていてその任を果たせそうになかったため、弟子の孫公和尚(明暦元年7月11日寂)に秀康の遺言を託した[1][2]。孫公和尚は各地を巡って北沢村に適地を見つけ寺院を建立し、秀康の法名「浄光院殿森巌道慰運正大居士」にちなんで「浄光院森巌寺」と名づけた[1][2]。 森巌寺は浄土宗に属し、京都知恩院の末寺である[3][5]。明治時代の神仏分離の時期まで、寺の東隣にある北澤八幡神社の別当寺を務めたことから山号を「八幡山」といい、正式の名称は「八幡山 浄光院 森巌寺」という[1][2][5][6]。本尊は阿弥陀如来で、脇侍の観音菩薩、勢至菩薩とともに祀られている[5]。 森巌寺の本堂は、江戸時代に2回の火災に遭って焼失したことが『新編武蔵風土記稿』巻之五十二、荏原郡之十四、下北沢村の条[11]や、村尾正靖が文化4年(1807年)から天保12年(1841年)の紀行文をまとめた『江戸近郊道しるべ』などに記述されている[注釈 2][2][12][13][14]。秀康の位牌は、本尊阿弥陀如来の元にある厨子内に安置されている[13]。
歴史