森岡賢
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この項目では、ミュージシャンについて説明しています。実業家については「森岡賢 (実業家)」をご覧ください。

森岡 賢
生誕 (1967-03-15) 1967年3月15日
出身地 日本東京都港区
死没 (2016-06-03) 2016年6月3日(49歳没)
ジャンルポップ・ミュージック
シンセポップ
EBO
ニューエイジ
職業作曲家
編曲家
音楽プロデューサー
キーボーディスト
担当楽器シンセサイザー
キーボード
ボーカル
ピアノ
ギター
活動期間1982年 - 2016年
共同作業者SOFT BALLET
KA.F.KA
minus(-)

森岡 賢(もりおか けん、1967年3月15日 - 2016年6月3日[1])は、日本ミュージシャン音楽プロデューサーキーボーディスト

東京都港区出身。血液型はB型。東邦音楽大学附属東邦高等学校ピアノ科卒業後、東邦音楽大学音楽学部作曲学科中退。SOFT BALLETの一員として活躍し、1995年に一時活動終了するが、2002年に再結成。再び活動終了した2003年以降はソロで活動していた。また、作曲家編曲家としてアーティストへの楽曲提供やプロデュースも行っていた。
経歴

1982年より - キーボードプレイヤーとして活動開始。三上博史ZABADAK戸川純BUCK-TICK遊佐未森、Urban Dance、宮原学等のライブ、レコーディングに参加。CM音楽、ゲーム音楽やアレンジも手掛ける。

1985年 - SOFT BALLETの前身となるバンド、VOLAJU(ヴォラージュ)を結成(メンバーは遠藤遼一藤井麻輝 他)

1987年 - GRANNY TAKES A TRIP(メンバーは森岡の他、田中裕千河村智康、名村武) としてシングル「愛しすぎたから」でメジャーデビュー

1989年 - SOFT BALLETとしてアルバム『EARTH BORN』でメジャーデビュー

1994年 - 初のソロアルバム『Questions』リリース

1995年 - SOFT BALLET「終了」

1996年 - 以降、プロデューサー、サポートミュージシャンとして活動

1998年 - ソロアーティスト「KEN MORIOKA A」としてシングル「FAT」でデビュー

1999年 - シングル「ZERO」、「Plastic Flower」に続きアルバム『JAPANESE』をリリース

2000年 - 「KEN MORIOKA」名義でシングル「Birth」リリース

2001年 - アルバム『ELECTRONICA』リリース、続けて「森岡 賢」名義でアルバム『fantasia』リリース

2002年 - SOFT BALLETが活動再開

2003年 - SOFT BALLET再び「終了」

2004年 - レーベル『ELECTRIC DISC』を立ち上げ、シングル『Always Need Your Love』をリリース

2005年 - 吉本興業ミュージックマネジメント運営のインディーズレーベル「Fate Records」 よりアルバム『Jade』リリース

2008年 - 出口雅之と共にジェントルマン テイク ポラロイドを結成、アルバム『Orfeu』(2009年12月)を発売

2008年 - I'veのボーカリスト・MELLのワンマンライブツアー『FIRST LIVE TOUR 2008 SCOPE』名古屋・大阪・東京公演に参加

2013年 - 土屋昌巳らとKA.F.KAを結成

2014年 - 藤井麻輝と共に新ユニットminus(-)を結成、アルバム『D』をリリース。

2015年 - 5月9日、KA.F.KA アルバム『Fantome † Noir』リリース。12月9日、minus(-) アルバム『G』リリース。

2016年 - 6月3日、心不全により死去。49歳没[1]

概要・人物・エピソード

父は作曲家編曲家の森岡賢一郎、姉は現代美術家森岡寿里、弟はギタリストの森岡慶(詳細は森岡賢一郎の項目を参照)

5歳よりピアノを始める。自らの意志ではなく両親に習わされていた為、嫌々レッスンに通っていた。むしろ当時の夢はプロレスラー野球選手になることだったと語っている[2]。後に父親のシンセサイザーで遊び始めたのがきっかけで、作曲や音作りに興味を持つようになる。

父親が業界人だった関係で、幼少期から家に小柳ルミ子天地真理などが出入りするような環境で育った。そのため業界人に対しても物怖じしなくなったが、例外として憧れとコンプレックスを感じたのが土屋昌巳YMOだった[2]

小学校、中学校といじめに遭い引き篭もりがちになるが、テクノを好んで聴いていたことから、高校時代に新宿ディスコ「ツバキハウス」に出入りするようになる。此処で藤井麻輝遠藤遼一と知り合う。中学時代に初めてデモテープを制作する。後年これを電話で藤井麻輝に聴かせたことがきっかけで、彼との本格的な交流が始まる。

モデルをしていた雑誌「JUNE」を通じてISSAYと出逢ったことがきっかけで、プロミュージシャンとしての活動を開始。ちなみに遠藤遼一と藤井麻輝も同誌モデル経験者である。1980年代のテクノシーンやいわゆるニュー・ウェイヴに強く影響を受けており、SOFT BALLETではポップでキャッチーな楽曲を製作することが多く、ことに1991年の『EGO DANCE』以降、ビクター(インビテーションレーベル)所属時代については、全てのシングルリリース曲のA面を担当するなど、SOFT BALLETの市場開拓に際しては森岡が主要な役割を担った。

ソロデビューアルバム『JAPANESE』ではSOFT BALLETに通ずるテクノポップなサウンドの他にもロックアンビエントハウスなど多彩な音楽性を取り入れたが、『ELECTRONICA』と『fantasia』の2作ではクラブミュージックシーンを意識した文字通りエレクトロニカを主体としていた。SOFT BALLETの復活?終了を経てからは再び様々な音楽性を発揮している。

音楽性からはデペッシュ・モードの影響が強いと言われるが、実際に一番影響を受けたミュージシャンは元祖ニューロマンティックヴィサージ(Visage)であると公言している。

SOFT BALLET結成当初はステージ上で微動だにせずシンセサイザーを弾いていた。後に三上博史のツアーサポートを務めたことが、パフォーマンスに開眼するきっかけとなった[2]。シンセサイザーだけでなく、楽曲によってはギターも演奏する。

コンサート初体験は、幼稚園の頃に観たトム・ジョーンズ

遅刻魔で知られており、SOFT BALLET時代には藤井にしばしば説教を受けた。

SOFT BALLET時代は、ミュージシャンとしての自分と素の自分とのジレンマに苦しんでいた時期があった。売れれば売れるほど苦痛になっていき、ステージ上とメディアに出ている時以外は廃人のような状態だったと語っている。当時、まだ学生だった及川光博がたまたま電車内で、ジャージ姿に黒髪混じりの汚いブロンドで手にはコンビニの袋という出で立ちの森岡を目撃している。


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