森安重勝
[Wikipedia|▼Menu]

森安重勝
基本情報
国籍
日本
出身地香川県坂出市
生年月日1937年7月9日
死没 (1984-01-21) 1984年1月21日(46歳没)
騎手情報
所属団体日本中央競馬会
所属厩舎東京尾形藤吉(1956 - 1975)
東京→美浦・尾形盛次(1975 - 1983)
初免許年1956年9月8日
免許区分平地
騎手引退日1983年2月
1981年5月(最終騎乗)
重賞勝利26勝
G1級勝利6勝
通算勝利3678戦543勝
テンプレートを表示

森安 重勝(もりやす しげかつ、1937年7月9日 - 1984年1月21日)は、香川県坂出市出身[1]騎手。実兄はナスノコトブキ菊花賞を制した森安弘明(騎手・調教師)。目次

1 人物

2 通算成績(中央競馬)

2.1 主な騎乗馬


3 脚注

人物

1956年9月8日の東京第1競走3歳未勝利・メモリー(13頭中13着)でデビュー[1]し、10月7日の東京第4競走4歳以上40万下・ラントウで初勝利を挙げる[1]。同期には矢野進池江泰郎増沢末夫武邦彦らがいる。関東競馬界の名門・尾形藤吉に師事したが、兄弟子に戦前から主戦を張っていた大騎手・保田隆芳が、弟弟子には後年尾形厩舎の主戦騎手となる伊藤正徳がいたこともあり、現役時代は必ずしも騎乗馬には恵まれなかった。さらに減量に苦しむ体質のためか、軽い斤量のレースには苦労していた。当時は馬齢で52kgの設定があったが、しばしば52.5kgで騎乗した。

コレヒサで天皇賞(春)メイズイ皐月賞東京優駿二冠ワイルドモアで皐月賞、ジュピックシャダイターキンで2年連続でオークス制覇を果たした。クラシックには滅法強く、1969年にはワイルドモアで皐月賞を見事に逃げ切る。同馬はレース後に骨折が判明しダービーには不出場になるが、代役馬としてハクエイホウで土砂降りのダービーを大外発走の不利を無視するがごとく逃げまくり、ダイシンボルガードミノルに僅かに遅れて3着であった。この年の尾形厩舎にはワイルドモア・ミノル・ハクエイホウ・メジロアサマと実力馬4頭「尾形四天王」が存在し4頭全てが重賞勝ちを記録したが、森安もこの頃が絶頂期であった。

森安は腕に自信があったタイプで、1963年にメイズイの三冠が掛かった菊花賞でコウライオーの挑発に暴走してしまった。菊花賞数日前のインタビューで「敵はレコードタイムだけだね」と豪語し、これがコウライオー騎乗の浅見国一が快く思うはずもなく、メイズイが暴走するように先手争いを仕掛けた部分もあった。レースは同厩のグレートヨルカが優勝したが、グレートヨルカの鞍上であった保田にレースが終わるなり相当ひどく叱られたというエピソードがある。実際、表彰式の保田に笑顔はなかった。後に「三冠達成のプレッシャーに押し潰されないために強気の態度を取らざるを得なかった」ことが判明し、事実、森安はプレッシャーのためにレース後体調を崩し入院している。

1964年7月31日福島市の県道で酒を飲んでダービーの副賞として貰った愛車を運転中に、自転車に乗っていた当時14歳の少年をはねて即死させたことにより、騎手免許を自主返上[2]。後に再取得するが、騎手を引退するまでの15年間は糖尿病との闘いでもあった[1]1970年代前半よりめっきり騎乗馬が減り、森安の大ファンで当時は一流の競馬評論を展開していた大橋巨泉が、尾形への公開質問を日刊スポーツ紙上に発表していた。その後はギャラントモアでダービー卿チャレンジトロフィー2着、ニシキエース安田記念新潟ステークス[3]優勝など、往年の逃げ馬を御す技術で玄人を唸らせた。最後は尾形盛次厩舎に所属[1]したが、糖尿病の悪化により視力の低下が進む[1]1981年5月を最後にレース騎乗から遠ざかり[1]1983年度の騎手免許試験の手続きをせず[1]、同年2月をもって引退。調教師試験も受けていたが、ガンのため早逝。通算成績は3678戦543勝[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:14 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef