森安なおや
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森安 なおや
本名森安 直(もりやす ただし)
生誕
1934年11月1日
日本岡山県岡山市内山下元町28(現在の岡山市北区表町1丁目)
死没 (1999-05-19) 1999年5月19日(64歳没)
日本東京都立川市上砂町1丁目
国籍日本
職業漫画家
活動期間1951年 - 1997年
代表作『赤い自転車』『烏城物語』
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森安 なおや(もりやす なおや、1934年昭和9年〉11月1日[1] - 1999年平成11年〉5月19日〈推定[2]〉)は、日本漫画家。漢字表記は森安 直哉。本名は森安 直(もりやす ただし)[1]

岡山県岡山市出身。1950年代を中心に活動し、トキワ荘の居住者の一人としても知られる。作品の多くは『漫画少年』等の雑誌や貸本屋向けの書き下ろし単行本(貸本漫画)に掲載された。寡作ではあったが、叙情に溢れた繊細なタッチは、漫画家仲間からも評価を受けていた。
来歴
高校卒業まで

岡山市内山下元町(現・岡山市北区表町)に生まれる[1]。生家は果実商である一方、父は国鉄[注釈 1]に勤務していた[1]。男ばかり4人兄弟の末っ子だった[1]

小学生時代から漫画に親しむようになる[3]。だが、高学年の頃に母が結核により死去[3]。加えて、1945年6月29日の岡山大空襲で、家族に死傷者は出なかったものの生家は全焼した[3]。このため、祖父母の住む吉備町に移る[3]。父は育児のためにまもなく再婚したが、継母との関係は良好ではなかったとみられている[3]

1947年、関西中学校(関西高等学校の併設中学校)に入学[4][注釈 2]。中学時代には、月刊少年雑誌(この時期に創刊されたものも多かった)を読むとともに、自ら漫画を描き始める[4]。雑誌掲載漫画では特に田河水泡の作品を愛読、模写もした[4]。雑誌への投稿も始めたが、多くの漫画家志望者が作品を寄せた『漫画少年』には送らなかった[4]。この点に関して森安は後年「あの時投稿しなかったことが、他の仲間たちとの間で差がつく原因になった」と述べていたという[4]

中学を卒業後、1950年岡山県立岡山南高等学校商業科に入学する[6][注釈 3]。父はこの当時も国鉄[注釈 4]に勤務していたが給与はあまりよくなく、森安はアルバイトを余儀なくされていた[6]。2年生の時、新聞部の友人に頼んで、学校新聞に漫画を連載する[6]。その後、「夕刊岡山」に勤務していた先輩の伝手で漫画を持ち込んで掲載され、これが商業デビュー(原稿料受領)となる[6]。自信を得た森安は「山陽新聞中学生版」にも漫画を持ち込んでこちらも採用となり、その後連載を持つに至った[6]。森安は田河水泡に次いで私淑していた石田英助に新聞掲載作の切り抜きを送って講評を求めたところ、激励するコメントとともに添削を付けて返された[6]。高校3年生の春に東京に行き、石田と田河の自宅を訪問して、石田には高校卒業後の上京と漫画家志望を、田河には弟子入り志願をそれぞれ伝える[7]。田河は当時、漫画家としての成功には努力だけでは克服できない生来の才能が必須と考え、押し寄せる弟子入り志願者の大半を拒絶したが、森安に対しては作品を見て門下生とすることを承諾し、高校卒業後の上京を促した[7]
トキワ荘時代まで

1953年春、高校を卒業すると事前の計画通り漫画家になるため上京する[7]。田河宅に挨拶に訪れた際に「直哉」のペンネームを授かる[8]。当初は田河の元に「通い」で修行する話だった(上京直後は石田英助宅に仮寓)が、家政婦が退職した田河から後任を兼ねて内弟子となる誘いがかかり、田河宅に住み込む[8]。当時田河の元で修行していた漫画家には、山根赤鬼山根青鬼滝田ゆう・藤田道郎(NHK職員、ドラマ版『まんが道』のプロデューサー)・三好好三(後の鉄道研究家)らがいた[8]。しかし、家事経験の乏しい森安は住み込み仕事に苦しみ、「これでは漫画が描けない」という不満を抱くようになる[9]。田河の説得を振り切り、約半年で内弟子をやめた[9]

田河の元を出た森安は、西池袋のアパートで暮らした[10]。田河の紹介で『少年クラブ』や『漫画少年』に4コマ漫画を数度掲載したが、森安が期待した長編作品の掲載には至らなかった[10]。収入に窮した森安は「漫画に関連する仕事」として、1954年に紹介により日動映画社(東映アニメーションの前身)に入社したものの、生活費を賄うには不足し、家賃は滞納した[10]。そんな折に日動映画社の古沢日出夫[注釈 5]から一人でやるよりグループで活動してはと、寺田ヒロオを紹介される[10]。訪ねた寺田からはグループを作る構想を聞かされ、7月9日に寺田・森安のほか藤子不二雄坂本三郎永田竹丸をメンバーとして「新漫画党」が結成された[12]。仲間ができたことで森安は再び漫画執筆を活発化させる一方、アニメーションへの興味は薄く、9月に入ると欠勤が増え、最終的に10月に日動映画社を解雇される(仮病を使って家で漫画を描いたことが理由)[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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