花魁については「森光子 (花魁)」を、トライアングルの元メンバーについては「小森みちこ」をご覧ください。
もり みつこ
森 光子
2009年7月1日(水曜日)、内閣総理大臣官邸での国民栄誉賞表彰式にて当時89歳の森光子。
本名村上 美津(むらかみ みつ)
生年月日 (1920-05-09) 1920年5月9日
没年月日 (2012-11-10) 2012年11月10日(92歳没)
出生地 日本・京都府京都市[1]
死没地 日本・東京都文京区本郷(順天堂大学医学部附属順天堂医院)
血液型B型[2]
職業女優
歌手
マルチタレント
司会者
ジャンル舞台
テレビ番組
日本映画
活動期間1935年 - 2010年
配偶者リチャード・ウエムラ(1947年)[1]
岡本愛彦[1](1959年 - 1963年)
著名な家族嵐寛寿郎(従兄)
事務所寛プロ
⇒ 東宝(東宝芸能)
⇒ 吉田名保美事務所
⇒ オフィス・モリ
主な作品
テレビドラマ
『時間ですよ』シリーズ[1]
『天国の父ちゃんこんにちは』シリーズ
『じゃがいも』シリーズ
『おしろい花』
『花吹雪はしご一家』
『せい子宙太郎‐忍宿借夫婦巷談』
『敵か?味方か?3対3』
『熱愛一家・LOVE』
『なぜか初恋・南風』
『かくれんぼ』
『田中丸家御一同様』
『お玉・幸造夫婦です』映画
『川の流れのように』舞台
『放浪記』[1]
『おもろい女』アテレコ
『もののけ姫』
森 光子(もり みつこ、1920年〈大正9年〉5月9日 - 2012年〈平成24年〉11月10日[3])は、日本の女優、歌手、マルチタレント、司会者。日本俳優連合名誉副会長、第6代日本喜劇人協会会長、フジテレビジョン番組審議会名誉顧問[4]。国民栄誉賞受賞。栄典は従三位・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・文化功労者・文化勲章。東京都名誉都民・京都市市民栄誉賞・京都名誉観光大使[5]。
京都府京都市出身。京都府立第一高等女学校(現・京都府立鴨沂高等学校)中退。俳優の嵐寛寿郎の従妹である。長らく「寛寿郎の姪で1923年生まれ」としていたが、1984年の紫綬褒章受章にあたり事実を公表し、訂正している。芸名は嵐の母(伯母)から、女優の森静子と伯母の旧姓・森端にちなんで「森」、本名の美津より「光子」とつけられたことによる。
略歴・人物浅草公会堂の手形
女優デビュー、ジャズ歌手、結核との闘病主婦と生活社『主婦と生活』2月号(1962)より
母親・艶は祇園の芸妓、父親は紡績会社社長の御曹司で学生時代に母を見初め、共に寄り添う仲となったが、家族の反対に遭い結婚がかなわず、そのなかで森は生まれ、母親の私生児として育てられた[1]。幼少の頃は歌と踊りが大好きで、7歳の時にはNHKのラジオ番組にも出演している。母の実家は京都・木屋町二条下ルで商人宿『國の家』を経営、旅館にはしばしば俳優の阪東妻三郎が芸者衆を連れて訪れており、その華やかな様子も少女時代の森に大きな影響を与えた。しかし『國の家』は後に倒産、両親も森が13歳のときに肺結核で相次いで死去。
森は当初、松竹少女歌劇のスター、水の江瀧子に憧れて歌劇の道を志すも果たせず、不本意ながらも[6]従兄の嵐寛寿郎のプロダクション(第二次寛プロ)に所属。1935年に映画『なりひら小僧 春霞八百八町』でデビューしたが[7]、1937年(昭和12年)、嵐が寛プロを閉鎖。1938年(昭和13年)、日活に移籍する中、森は新興キネマ(後の大映)に所属し、娘役として多くの映画に出演した。多くは「狸物(阿波狸合戦伝説に材をとった『阿波狸合戦』を初めとする喜劇映画)」などの喜劇や二線級の映画であり「溝口健二の『祇園の姉妹』のような映画に出たい」と夢見ていた森は失望する。またこの頃、気鋭の映画監督だった森一生にプロポーズされ、婚約したがその後婚約破棄。これを境に撮影所内で悪評が立ち始め、役者としての活動をしづらくなったため映画界から一時身を引く。
1939年(昭和14年)10月、映画法が制定。映画出演が制限され始めたため、1941年(昭和16年)、21歳で歌手を目指して陸軍の満洲慰問団に参加した[8]。戦時中は日本軍慰問団で東海林太郎らの前座歌手としてミスワカナ・玉松一郎らと中国戦線や南方戦線を巡回する。慰問団では赤木春恵と出会い、以後60年以上に渡り親交を深めることとなる[9]。後年、セレベス島滞在中の体験談を語っている。森は事前に、空襲の際にはホテルの防空壕よりも、堅固な近くの刑務所の防空壕に逃げるように説明されていたが、ある日、買物からの帰り際、空襲警報に遭遇、やむなくホテルの防空壕に避難した。しかし、空襲で直撃弾を受けたのは刑務所の防空壕だったため、難を逃れたという[10][出典無効]。