森 俊成(もり としなり、1887年(明治20年)1月4日[1] ? 1956年(昭和31年)9月16日[2])は、日本の華族、政治家。貴族院子爵議員、中野町長。旧三日月藩主森家第11代当主。旧名は訥郎[1]。
経歴の養子となり家督を相続した[1]。1915年(大正4年)、京都帝国大学法科大学を卒業した[3]。
1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出された[2][4]。1928年(昭和3年)には東京府豊多摩郡中野町(現在の東京都中野区南部)の町長に選出され、1932年(昭和7年)に中野町が東京市に編入され消滅するまで在任した[5]。中野町消滅後に東京市会議員選挙に出馬し、当選[3]。その後、議長も務めた[3]。
1933年(昭和8年)、長男の俊守が華族赤化事件で治安維持法違反に問われて起訴されると、同年5月29日に貴族院議員を辞職した[6][7]。
1939年(昭和14年)、天津事件を契機に反英運動が盛り上がりを見せると、森も積極的に運動に参加。7月14日に日比谷公会堂などで3万人を集めて行われた反英市民同盟主催の集会では座長の一人を務めた[8]。
1943年(昭和18年)、東京府・東京市が廃止され東京都が設置されると、初代の東京都議会副議長に選出された[9]。また戦後の1946年(昭和21年)5月10日には再び貴族院議員に選出され[2][10][11]、研究会に所属し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。その後公職追放となった[12]。
その他、帝国産金株式会社取締役を務めた[3]。
脚注^ a b c 人事興信録 第5版 1918.
^ a b c d 議会制度七十年史 1960.
^ a b c d 人事興信録 第14版 1943.
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、34頁。
^ 中野町誌 p.166 1934.
^ 反逆する華族 pp.112-113 2013.
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
^ 市民三万、英国大使館にデモ行進『東京日日新聞』(昭和14年7月15日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p669 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 東京都議会. “ ⇒歴代副議長” (日本語). 2016年8月11日閲覧。
^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、56頁。
^ 『官報』第5815号、昭和21年6月5日。
^ 公職追放の該当事項は「皇民実践協議会相談役」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、369頁。NDLJP:1276156。 )
参考文献
人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
中野町教育会編『中野町誌』中野町教育会、1933年。
人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。
『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
総理庁官房監査課『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年。
衆議院・参議院編『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1960年。
浅見雅男『反逆する華族 「消えた昭和史」を掘り起こす』平凡社新書、2013年。
日本の爵位
先代
森長祥子爵
(三日月)森家第2代
1900年 - 1947年次代
華族制度廃止
府県会規則施行下
福地源一郎
沼間守一
福地源一郎
沼間守一
芳野世経
須藤時一郎
芳野世経
府県制施行後
芳野世経
斎藤孝治
杉原栄三郎
斎藤孝治
酒井泰
花井源兵衛
堀江正三郎
牧野賤男
矢野鉉吉
大石保
中野勇治郎
片山久蔵
赤塚五郎
遠藤千元
三隅正
朝倉虎治郎
田中源
三隅正
平林浅次郎
岡蕃
渡辺平次郎
大橋清太郎