もりした ようこ
森下 洋子
生誕 (1948-12-07) 1948年12月7日(75歳)
広島県広島市中区江波
職業バレリーナ
受賞芸術選奨新人賞(1971年)
ヴァルナ国際バレエコンクール金賞(1974年)
文化庁芸術祭賞(1975年)
芸術選奨文部大臣賞(1978年)
毎日芸術賞(1982年)
都民文化栄誉章
森下 洋子(もりした ようこ、1948年12月7日 - )は、日本のバレリーナ。文化功労者、日本芸術院会員。広島県広島市江波(現中区江波)出身。2001年から松山バレエ団団長を務めている。 著名なプリマバレリーナ。日本人で初めて国際的に活躍したプリマと評され、「東洋の真珠」と謳われた[1]。正確なテクニックと演技力で、海外の多くのステージでプリマとして客演を務め、英国、アメリカ、中国などで主演公演『白鳥の湖』『ジゼル』『くるみ割り人形』『ドン・キホーテ』『眠れる森の美女』他を行い、多くの観衆を魅了。海外の国際バレエコンクールの審査員も務める。松山バレエ団団長[1]。 世界のバレエ団からのオファーを断り、日本を拠点に活動[1]。バレエ歴は60年を超え、現在もバレリーナとして活動し続けている[1]。 広島市への原子爆弾投下から3年後である1948年、広島市で生まれる[4]。幼少期を過ごした江波は爆心地から離れており建物被害は少なかったこと、そして復興が進んでいたことがあり、森下の記憶には焼け跡の情景は残っていない[4]。 バレエとの出会いは3歳の頃、体が弱く丈夫になるために[5]医師から運動を勧められていたところ、ちょうど家の前の幼稚園でバレエ教室が開かれていて、通いだしたのがきっかけ[4]。そこは広島のバレエの草分け的な存在であった葉室潔の教室であった[4]。森下はバレエとの出会いは運命的なものであり、この教室がなかったとしてもどこかでバレエに出会っていたはずと語っている[4]。不器用で初めは教室での練習になかなかついていけなかったが、家で稽古を何度もこなし両親に励まされ出来るようになると、人よりも多く稽古をしバレエにのめり込んでいった[4]。バレエを一生続けたいという思いはこの幼少期の頃に出来上がっていった[4]。のち葉室から勧められ洲和みち子に師事、ここで森下は技術的な面だけではなくメンタル面も鍛えられた[6]。
人物
来歴
幼少期
この時期、東京への旅費を稼ぐために母親が始めたのが洋食屋“きっちんもりした”である[2]。この袋町のレストランは繁盛し、小学3年生から家族で袋町へ移り森下は広島市立袋町小学校へ編入する[2][7]。なおこの店は有名店となりその後数十年も続いたが2016年現在は存在していない[2]。 1960年小学6年生の時に、バレエを一生の仕事にしたいと親にせがんで本格的に上京、橘に師事し住み込みのバレエ漬け生活を始める[2]。森下の母曰く「あの子はバレエにあげた」[2]。1961年頃から大原永子とともに『りぼん』『少女倶楽部』『少女フレンド』『マーガレット』など、少女雑誌のグラビアページを毎号飾り“天才バレリーナ”として日本中の少女たちの憧れの的となった[8]。東京では、武蔵野市立第一小学校へ転校しのち武蔵野市立第一中学校、吉祥女子高等学校を卒業、この間学業とバレエを両立した[8][9]。 1969年、アメリカ留学[9]。これには東洋工業(マツダ)社長松田恒次のサポートもあったという[9]。当地で契約オファーの話もあったがすべて断り、日本へ帰国する[9]。また森下によると、20歳の頃のみ稽古の合間によく遊び、ディスコや麻雀など一通りのことはやったと述べている[10]。 1970年、松山バレエ団“白毛女”を見て感動し、松山樹子に師事を願い出るも断られる[10]。橘秋子の死去後、1971年もう一度松山に願い出ると認められ、ここから森下は松山バレエ団に所属することになる[10]。この移籍に周囲は騒いだが、松山とその夫である清水正夫に守られバレエに専念した[10]。松山移籍後、訪中し白毛女を踊っている[10]。 1971年、芸術選奨新人賞を受賞。
橘バレヱ学校から松山バレエ団へ