森下博
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その他の同名の人物については「森下博 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

もりした ひろし
森下博
1901年頃撮影
生誕森下茂三
1869年12月5日
備後国沼隈郡鞆町
死没 (1943-03-20) 1943年3月20日(73歳没)
兵庫県西宮市
国籍 日本
職業実業家
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森下 博(もりした ひろし、1869年12月5日[1]明治2年11月3日) - 1943年昭和18年)3月20日)は、日本実業家森下仁丹の創業者。広告宣伝を積極的に行って商品の名を広め、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}日本の広告王[要検証ノート]と称された。広島県鞆町生まれ。幼名は茂三(もぞう)[2]
経歴
誕生

1869年、備後国沼隈郡鞆町(現・広島県福山市鞆町)に沼名前神社宮司を務める森下佐野右衛門と佐和子の長男として生まれる。博が幼い頃、父は宮司を辞めて煙草の製造販売に転業するも、「士族の商法」で接客したため売上は芳しくなかった。このため、父は学問よりも商売の智識の習得が今後は役に立つと考え、博が9歳の時に学校を辞めさせて備後府中宮内村の煙草商を営む那部嘉右衛門の元へ見習奉公に出した。博はここで12歳まで働いて様々なことを学んだ。見習奉公の年季を果たした博は奉公先近くの小学校の先生の勧めで『學問ノスヽメ』や『世界国尽』などの福澤諭吉の著書を学び大きな感銘を受けたが、父の病気により鞆町の実家へ呼び戻されたため、満足に学校に通うことは出来なかった[2][3][4]

1882年(明治15年)、父が亡くなり家督を相続して15代佐野右衛門を襲名して宮司職を継いだが、世は文明開化の時代、大志を抱き1883年(明治16年)15歳の春に数日間歩き通して単身大阪へ上った。大阪では泊園書院(現・ 関西大学)で学びつつ[5]、医者となっていた叔父の沢田吾一の世話を受け、叔父の知人である桑田墨荘の紹介により、心斎橋の舶来小間物問屋「三木元洋品店」で丁稚奉公を始めた[2][6]
創業と方針森下南陽堂店舗(1907年撮影)毒滅の広告。1904年10月30日の大阪朝日新聞の広告に彩色を施したもの。

博の三木元洋品店での奉公は9年間で年季が明けて別家を許され、1892年(明治25年)に丸尾花子と結婚する。翌1893年(明治26年)紀元節、24歳の時に大阪市東区淡路町に念願の薬種商「森下南陽堂」を創業した[2]。妻と従業員2名から店を始め、根本方針として「原料の精選を生命とし、優良品の製造供給進みては、外貨の獲得を実現し広告による薫化益世を使命とする」と示し、広告を重要視した販売戦略を掲げた。

薬種商の仕事は富山新潟などの売薬業者に原料を販売するのが主だったが、森下南陽堂は自店が開発した製品の発売も行った。1896年(明治29年)2月11日には日清戦争の功労者に与えられた金鵄勲章にあやかった香袋『金鵄麝香』(きんしじゃこう)を発売、4月には「薬石新報」に全面広告を掲載した。また、1898年(明治31年)には内服美容剤『肉体美白丸』を発売している。しかし、これらは大きな成果は生まず販売数的に見ると失敗であった。また、森下はルーデサックをフランスから輸入して性病予防器具『やまと衣』として発売し、「病気は予防するものである」という考えを打ち出している[2][6][7]

1900年(明治33年)2月11日には笹川三男三医学博士が処方を開発した梅毒薬『毒滅』を発売する。当時世間一般には、広告を出すような会社は商品に自信が無いに違いない、と思われていたが、この毒滅の販売には家財の一切を広告費につぎ込み大々的な宣伝を仕掛けた。商標にはドイツ宰相ビスマルクを使用、「梅毒薬の新発見、ビ公は知略絶世の名相、毒滅は駆黴唯一の神薬」というコピーを作り、日刊紙(新聞)各紙に全面広告を出した。また全国の街角の掲示板にポスターを出すなど、先駆的な宣伝戦略を打ち出して成果を収めた。毒滅の成功で軌道に乗った森下南陽堂は1902年(明治35年)に手狭となった店舗を淡路町から東区道修町1丁目へと移転し、1905年(明治38年)には『仁丹』の発売に合わせて、社名を「森下博薬房」へと改めた[2][6][8]
仁丹の製造発売

森下は以前から着目していた家庭保健薬の研究を進めた。この保健薬作成の着想はかつての1895年(明治28年)に森下が軍隊に召集された時に発想を得たといわれる。任地の台湾へ出征した森下は現地で服用されていた丸薬を見て、これを日本の総合保健薬に取り入れることを思い立った。この開発研究の為、薬学の権威であった三輪徳寛、井上善次郎両博士に協力を依頼した。森下は和漢の生薬原料を取り寄せて自ら処方にも取り組み、処方の完成には3年を費やした。本製造開始の為に丸薬作りの本場である富山に1か月間滞在して生産方法を学び、製丸機と製丸士を連れ帰った。また、丸薬の携帯性を高めるため、表面を赤いベンガラでコーティング(1929年(昭和4年)からは銀箔)することを考案した[2][7][9]

ネーミングは中国大陸への輸出を念頭に考案され、「仁儀礼智信」の五常首字であり、儒教最高の徳とされる「仁」と、台湾で丸薬に使われていた「丹」の文字を組み合わせ仙薬のイメージを持たせた。読みは漢学者藤沢南岳朝日新聞論説委員を務めた西村天囚に意見を求めて「じんたん」とした。トレードマークにも数百回に及ぶ修正を重ね、最終的に大衆に人気のあった大礼服を着せて帽子をかぶり、カイゼル髭を貯えた人物がデザインされた。こうして大衆薬『仁丹』が1905年2月11日に森下博薬房から発売された。尚、商標の人物のモデルには様々な説があった。仁丹の発売時には伊藤博文の長男文吉や森下自身がモデルとも噂された。一般には毒滅で使ったビスマルクをデフォルメして大礼服姿にしたものだという説が広く流布したが、森下の孫のが祖父にモデルの軍人は誰か訊ねたところ、人物は軍人ではなく外交官を表しており、仁丹は薬の外交官であるとの返答を受けたという[2][8][10][11][12]大阪の仁丹広告塔
1907年撮影

仁丹は日本初となる薬の特売や景品贈呈といった独自の販売方式を取り入れて販路を拡大していった。また、宣伝には更にスペクタクルな広告戦略が打ち出され展開された。売り上げの三分の一を宣伝費に投資したといわれ、新聞全面広告の連日掲載や街の琺瑯(ホーロー)看板の設置を繰り広げた。更には従業員を拡張隊と称して全国を巡らせ、全国薬店に突き出し看板やのぼり、自動販売機などを設置した。こうした宣伝により仁丹は全国で広く認知され、大礼服マークは当時の薬局の目印になったほどだった。また、電柱広告にも目を付けて町名表示と広告を併せて掲示したり、鉄道沿線の野立看板を設置した。


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