棚田
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ベトナムの棚田

棚田(たなだ)とは、傾斜地にある稲作地()のこと。傾斜がきつく耕作単位が狭い状態において、水平に保たれた田が規則的に集積し、それらが一望の下にある場合は千枚田(せんまいだ)とも呼ばれる[1]。英語では「rice terraces」と表現される。棚田と同様に傾斜地を段状にしたは段々畑(だんだんばたけ)という。
日本の棚田
特徴



棚田の景観

耕作時期風景[注釈 1]

水が張られた棚田

田植え後の棚田

稲穂の棚田

日本稲作の適地は、安定した水利を得られることに加えて、流れていく農業用水の管理が容易にできる土地である。土地には元々傾斜があるが、傾斜が少な過ぎる土地、および排水しづらい土地は湿地となるため、安定した稲作を行うためには、一定の農学土木技術が必要であった。また、灌漑をする場合はある程度の傾斜が必要であり、傾斜があまりにも少ない河川下流域の沖積平野は、江戸時代以前は稲作をするのに不適当であった。すなわち、近世以前の稲作適地は、比較的小規模で緩やかな沖積扇状地、小規模な谷地、あるいは小規模で扱いやすい地形が連続する隆起準平原上などが主力であり、いずれも河川の中上流域が中心であった。これらの土地は緩やかな高低差があり、一つ一つの田の間に明確な高低差が生じて広い意味での棚田を形成することになる。
棚田の出現

棚田という語句が見られる古い史料として、室町時代の1406年(応永6年)の日付が記録されている高野山文書『高野山學道衆堅義料寄進状』があり、「池ノ水ヲ引ク也根本ハ糯田ト名ク〔ママ〕 今ハ山田ニテ棚ニ似タル故ニ タナ田ト云」と書かれ、当時から池の水を引く水田であったことが述べられている[2]。また糯田という特記について、農業地理学者の中島峰広は糯田が普通の水田であるウルチ田より収量が劣り、程度の低い水田とみなされていたためと述べている[2]
近世

近世以降は灌漑技術が向上し、傾斜が少ない沖積平野でも、水路に水車を設けて灌漑や排水が出来るようになり、現在、穀倉地帯と呼ばれるような河川下流域の平野での稲作が広まった。

西日本は、地形的に急峻な山地がいきなり海に没する地形が多く、また沖積平野も比較的狭いところが多い上に、耕作適地は古くから高度に農地化されていた。このため、江戸時代干拓を含めた沖積平野の新田開発の余地が乏しくなると、経済の基盤の石高を増やすため、今度は急傾斜の山岳斜面上に水田がつくられ、現在でいう棚田が多くつくられた。その際、伝統的な石垣構築の技術を生かし、少しでも収量を増やすため、棚田の(あぜ)や土手(どて)の部分(土坡、どは)は、極限まで収量を上げるために急な傾斜に耐えられる石垣でつくられた。

一方、東海地方北陸地方以東の東日本は、比較的広い沖積平野に恵まれていた上に、太平洋側を中心に低開発状態の洪積台地河岸段丘面の農地開発の余地が大きく、日本海側を中心に扇状地でも開発の余地が広く存在した。このため、江戸時代に至っても、急峻な山地の傾斜面を切り開いて棚田をつくるまでに至らなかったところが多く、棚田はあまりつくられないか、つくられた場合でも畔や土手は傾斜が緩やかな土盛りとなり、西日本とは対照的な棚田風景となった。なお、東日本・西日本に関わらず、漁港の適地が海沿いの山に囲まれた入り江であることも多かったため、漁港から離れた平地の領地争いに敗れた漁村では、漁港近くの山に漁民の主食用の棚田がつくられる例がみられる。

棚田はその出現以降も蔑視されており、1744年(寛政6年)の『地方凡例録』でも「山田・谷田と名を付は、山の洞谷間等にある田にて、至て土地あしく、猪鹿の荒らしも強く、下下田の位にもなりがた分を山田・谷田と名付く」と述べている[2]中島峰広はこれについて、下下田を下回るということは位がなく、課税対象にもならなかったのではないかと推察する[2]
近代

第二次世界大戦後は稲作の大規模化・機械化が推し進められ、傾斜に合わせて様々な形をしていた圃場は、農業機械が導入し易い大型の長方形に統一されて整備された。棚田のうち、特に急傾斜の地域ではこのような圃場整備や機械化は難しかったが、土木技術の進歩で大規模化に成功した山間地の棚田も多い。ただし、西日本の(急傾斜)棚田では、大規模化をしようとすると斜面を大きく削らなくてはならず、法面(のりめん)の土砂崩れ対策など付帯工事の費用が莫大となるため、大規模化されなかったり、営農放棄されたりして荒廃していくところも多く見られた。

1970年のコメの生産調整(「減反政策」参照)において、農林水産省は木材自由化の目処が立たないこともあり、棚田のスギ林への転換を奨励した[2]。しかしこの施策は失敗し、特にスギ林が無惨に放置された中国山地の光景をみて民俗学者の神田三亀男は農政批判を行った[2]

一方で棚田を称賛する言説もあった。昭和初期のアメリカ合衆国での経済学会で、ある地理学者[注釈 2]が、棚田はエジプトのピラミッドに並ぶ偉大なものであり、農民の労働・勤勉の結晶であると東畑精一に絶賛したという[3]。1985年、司馬遼太郎が「街道をゆく」シリーズの取材で高知県に訪れた際には、梼原町史の千枚田について「えらいもん」「大遺産」と絶賛したという[3]

棚田は、国土や美しい景観の保全、農山村部のコミュニティ維持や都市との交流、文化・教育といった多面的の価値を評価されている。日本国政府は『棚田地域振興法』を制定するなどして営農継続を支援している[4]。農林水産省は1999年に「日本の棚田百選」として134地区を選定したほか、2022年2月15日には自治体など多様な主体が維持・振興に加わる「つなぐ棚田遺産」271地区を発表した[5]

なお、稲作には灌漑が必要であるため、現在残る(急傾斜)棚田でも勿論、灌漑設備が整っている。ただし、山間地にあるため河川は上流であり、日照りが続くと水量が簡単に減ってしまって水田が干上がってしまう問題があった。そのため、最寄の河川以外からも用水路を延々と引いたり、ため池築造による天水灌漑を行ったりした。それらの方法が困難な場所は、田の地下に横穴を設け、湧水伏流水など地下に涵養された水(地下水)を利用する場合もある。
棚田の定義石田の棚田。」淡路島は慢性的な水不足を解決するために、数多くの溜池が造られてきた。溜池と棚田、瀬戸内海播磨灘)が一体となる景観は、淡路島北部特有の景観を形作っている。

傾斜地にある田のうち、急峻な傾斜地で階段状につくられた田をいう[6]
古い用例

紀伊国伊都郡志富田荘(和歌山県かつらぎ町)の棚田の反別、収穫量を記した建武5年(1338年)の『高野山文書』では「棚田一御得分四十ハ…」と棚田の文字がみえる(棚田学会による)。

群馬県沼田市で、古墳時代後期(6世紀中頃)の棚田遺構が見つかっている。

農林水産省の認定制度

現在、「棚田」といえば「急傾斜の山間地の階段状水田」を指す。そのため、農林水産省は傾斜の度合いで棚田を定義しており、機械化の度合いや農業文化についての規定はない。

農水省の定義
傾斜度が20分の1(水平距離を20メートル進んで1メートル高くなる傾斜)以上の水田[4]を「棚田」として認定する。認定された棚田は、助成金が交付される。

農水省と日本土壌協会が、1993年に行った現地調査では、農水省の定義による「棚田」は22万1067ヘクタールとされている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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