棒になった男
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棒になった男
訳題The Man Who Turned Into A Stick
作者
安部公房
日本
言語日本語
ジャンル戯曲
幕数オムニバス形式の3景
初出情報
初出「鞄(一幕)」-『文藝1969年1月号
「棒になった男」-『文學界』1969年8月号
「時の崖」-書き下ろし
刊本情報
刊行『棒になった男』
出版元新潮社
出版年月日1969年9月20日
装幀安部真知
総ページ数135
初演情報
公演名第一回紀伊國屋演劇プロデュース公演
場所紀伊國屋ホール
初演公開日1969年11月1日
演出安部公房
主演井川比佐志
ポータル 文学 ポータル 舞台芸術
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『棒になった男』(ぼうになったおとこ)は、安部公房戯曲。「鞄」「時の崖」「棒になった男」の3つで構成されるオムニバス形式の演目である。各景はそれぞれ人間の「誕生」「過程」「」を象徴し、第一景では人間が「」、第二景では「ボクサー」、第三景では「」である[1]

1969年(昭和44年)、雑誌『文藝』1月号に「鞄(一幕)」が掲載され、同年、雑誌『文學界』8月号に「棒になった男」が掲載された。同年9月20日に「時の崖」を加えた単行本が新潮社より刊行された。初演は同年11月1日に安部の演出により紀伊國屋ホールで上演された。翻訳版はドナルド・キーン訳(英題:The Man who turned into a Stick)をはじめ、各国で行われている。現在まで国内外で多数上演され続けている。
作品成立・主題

第一景「鞄」は、ラジオドラマ『男たち』(1968年)を戯曲化したもので、第二景「時の崖」は、ラジオドラマ『チャンピオン』(1963年)を小説化した『時の崖』(1964年)を、さらに戯曲化したものである[2]。第三景「棒になった男」は、小説『棒』(1955年)をラジオドラマ化した『棒になった男』(1957年)を、さらに戯曲化したものである[2]

舞台にかける配列は、書かれた順序とそっくり逆になっているが、安部公房によると、3つの景は最初から1本の作品にまとめるつもりで計画的に書いたわけではないが、意識したときには、この3つはすでに1つの作品として目の前に在り、何のためらいもなく、ごく必然的にこの組み合わせを受容していたという[1]

また安部は、「鞄」「ボクサー」「棒」は各景を通じて必ず同一の俳優が演じなければならないと指定し、この3つの役を演じる俳優が一見無関係に見える各景を有機的に結びつけ、隠された内部の主題をあらわにする「の役目」をすると説明している[1]

戯曲全体のねらいについては、「お化けですよ。人間以外の化けものが日常的に存在している現代の状況をそのままの形で出す。舞台をのようにして、観客の一人ひとりの実像を写し出すことをねらっています。観客とじっさいには対話はしないが、一種の対話劇です」と説明し[3]、聞き手の金田浩一呂が、第一景では、カバンになった男より、そのカバンをあけることをこわがる女性たちへの風刺劇ともとれるという感想を述べたことに対しては、「いや、舞台にかければわかりますよ」とだけ答えている[3]
第一景・鞄
あらすじ

新婚の女の家に、女友達が客として来ている。女は夫の所有する中古の旅行鞄を客に示し、鍵を開けて中身を確かめてほしいと頼む。物音がするその不審な鞄は、夫が言うには中に「先祖」が入っているのだという。客は、ピンで鍵穴を動かしたりするが、中から低い言葉の呟きのようなものが聞え、おもわず身を引き離す。中身が虫かミイラか得体のしれない鞄を前にし、なぜあなたが自分で開けないのか、あなたはただ開けたがってるふりをしているだけだと、客は女に言う。女は、持って帰ってどこかに捨ててきてくれと頼むが、客は断る。そんな押し問答しているうち、はずみで錠前のはずれる音がした。うろたえる女に客は、「あとは、あなたの心の錠前だけね」と言い残して帰ってゆく。しばらくし、午後6時になると、女はその鞄の鍵をかけた。そして隣の部屋に行き、出前の電話をかけ、チャーシューメンを一つ注文する。
登場人物

結婚して間もない若い妻。

まだ独身の女友達。猫が大きらい。
旅行鞄(男)
中型の中古の旅行鞄。
株式相場や、脈絡のない意味不明の語句や、輪廻のあとについて低くつぶやく。
第二景・時の崖
あらすじ

昭和38年、落ち目のランキング・ボクサーが、試合直前の心境から、試合中のダウンまでの経過を実況風に独白し続ける。
登場人物
ボクサー
8月生れ。ふだんは会社員。2月18日に勤め先が変わった。出社前に
ロードワークし、退社後にスパーリングの練習をしている。縁起担ぎで赤い靴下を新調する。
声(セコンド)
試合中、ボクサーに指示する。
第三景・棒になった男
あらすじ

ある6月の日曜日、ターミナルデパートの屋上から一本の棒が落ち、歩道の縁石に座っていたフーテンのカップルのそばに転がった。フーテン男が棒でリズムをとっていると、棒を探していた地獄の男と女がやって来た。二人は棒を渡すように言ったが、フーテン男は拒否した。そしてフーテン女と棒で背中を掻き合ったりして渡すのをしぶっていたが、棒がふと死にかけた魚みたいにピクッと動いて気味悪くなり、地獄の男に千円で棒を売った。

地獄の男と女は、棒になって屋上から落ちた父親を捜しに来た子供の目から棒を隠して、地獄の本部と通信する。棒は刑なし・登録不要と確定され、棒はそのまま排水溝の穴へ放置されることになった。地獄の女が同情心を起こして、子供に返してやるべきだと言い、棒になった父親が反省の鏡になるのではと提案すると、地獄の男はそれを一笑に付し、自分で満足している者が、どうやって反省するのさと言った。その一連の会話を聞いていた棒は、「満足している人間が屋上から飛び下りたりするものか! いったい、棒以外の何になればいいって言うんだ、この世で、確実に拾ってもらえるものと言えば、けっきょく棒だけじゃないか!」と独白する。

地獄の女は、「でも案ずることはないのです、あなたは一人ぽっちではないのです」と言い、地獄の男は、あたり(客席)をぐるりと指さし、「見たまえ、君をとりまく、この棒の森……もっと違った棒にはなりたくても、棒以外の何かになりたいなどとは、一度も思ったことのない、この罪なき人々……」と話し出す。
登場人物
地獄の男
地上勤務MC実習班の指導員。該当者の消滅時間と消滅地点を確認後、地獄の本部に
トランシーバーで連絡して確認番号を照合し、刑の判定やその種類と処置の登録をする。
地獄の女
新任の地上勤務員。地獄の男に付いて実地研修をしている。
棒になった男
1メートル20センチくらいの棒。小学生の息子とデパートの屋上の遊園地にいるときに、棒になって落下した。
フーテン男
閉ざされた表情の若い男。
フーテン女
若い女。「断絶の時代なのよ、私たち疎外されてんの」が口ぐせ。
地獄からの声
地獄の本部の男。地上からトランシーバーで報告を受け、該当者の確認番号を照合する。次の作業予定を知らせる。
作品評価・解釈

中野孝次は、安部がガルシア・マルケスの『百年の孤独』を讃辞した文章の一節の、〈現代というこの特殊な時代の人間の関係を照射する強烈な光なんです〉という言葉に着目しながら、安部の他のいくつかの作品同様に『棒になった男』も、「現代における生の構造そのもの」を照射している文学だとし[4]、地獄の男が〈われわれの仕事は、彼等の生を忠実に記録しておくことなのさ〉、〈人間の、見せかけの形に、つい迷わされてしまうんだな。しかし、棒はもともと、生きている時から棒だったってことが分ってしまえば……〉という台詞を引いて、このときの〈〉は、戯曲『友達』における「〈家族〉のイメージ」同様に、「われわれ自身の問題としていろんなエコーを呼び起しだす」と考察している[4]

ゴーシュ・ダスティダー・デバシリタは、第三景の「棒になった男」において、「他者の道具にしか過ぎない棒と似たような人間存在」を集め分析する「地獄からの使者たち」は、「人間世界の他者」、「大胆で残酷な世間」を表わすとし[5]、それにより、「人間が生きている世界を他者の目で見つめることで世の中に混乱している様々な状況」を浮き彫りにし、「人間が社会制度のなかに取り込まれ、生存枕争、所有欲などによって人間性を失いつつあることが示されている」と解説している[5]

また、デバシリタは、都市に生活する個々の人間が他者と葛藤しながら生きているのは、生育環境や家庭環境、仕事や交友関係、物事の考え方や価値観や習慣にかかわらずに共通しているとし[5]、そういった近代消費社会の中で、それぞれの道を選択しながら生きている人間存在を「現代都市における〈孤独〉〈アイデンティティーの喪失〉などのシチュエーション」で取り上げ戯曲化し、「現実社会に存在する問題」を提示するのが安部の意図だと考察し、以下のように解説している[5]。現代社会に広がる人間疎外状況はますます深刻化している。都市の発達に伴う価値観の多様化は、一方では価値観の混乱、人間関係の危機、アイデンティティーの喪失を拡大させている。


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