梶芽衣子
[Wikipedia|▼Menu]

かじ めいこ
梶 芽衣子
本名太田 雅子(おおた まさこ)
別名義同上
生年月日 (1947-03-24)
1947年3月24日(77歳)
出生地 日本東京都千代田区[1]
国籍 日本
職業女優歌手
ジャンル映画テレビドラマ
活動期間1965年 -
配偶者独身
主な作品
テレビドラマ
大江戸捜査網
寺内貫太郎一家』(第1シリーズ)
花嫁衣裳は誰が着る
鬼平犯科帳シリーズ
剣客商売』映画
野良猫ロックシリーズ[1]
銀蝶シリーズ
女囚さそりシリーズ[1]
現代任侠史
修羅雪姫シリーズ
無宿[1]

 受賞
ブルーリボン賞


主演女優賞

1978年『曽根崎心中』

その他の賞
京都市民映画祭 主演女優賞
1976年無宿キネマ旬報ベスト・テン
主演女優賞
1978年『曽根崎心中』毎日映画コンクール
女優演技賞
1978年『曽根崎心中』
田中絹代賞
2020年報知映画賞
第3回主演女優賞 1978年『曽根崎心中』
第20回助演女優賞 1995年『鬼平犯科帳 劇場版』

テンプレートを表示

梶 芽衣子(かじ めいこ、1947年3月24日[1] - )は、日本女優歌手。本名および旧芸名、太田 雅子(おおた まさこ)。

東京都千代田区神田出身[2][3]
来歴

幼い頃はシャイで人見知り。両親の勧めで中高時代はバスケットボール部に所属し、友人を作る楽しさ、グループの一員となる喜びを味わったという[4]八雲高校在学中に銀座でモデルにスカウトされる[4]。その後、高橋圭三の事務所「圭三プロダクション」に所属し[5]、高橋司会の『おのろけ夫婦合戦』(日本テレビ)でアシスタントを務めたことが切っ掛けで[5]1965年、高校卒業と同時に日活に入社[2][1][6]。同年に映画『悲しき別れの歌』で本名の太田雅子でデビューし[3]石原裕次郎小林旭松原智恵子吉永小百合らが主演する映画で助演していた[1]。同期で活躍したのは渡哲也[7]

子役からのアイドルスターであった太田博之とコンビを組み、W太田として青春スターとして売り出され、1965年の映画『青春前期 青い果実』で主演を果たす。この頃は慣れないアフレコに四苦八苦しており、そんな梶をある大物女優があざ笑い、怒った梶はその女優に「笑わないでください。あなたたちは初めからこれができたんですか!」と啖呵を切った[4]。その噂は撮影所に瞬く間に広がって武勇伝となり、生意気というレッテルが貼られ、会社の重役からは絞られたものの、その事が切っ掛けでアフレコを一生懸命に練習し、上達した[8]

最初は吉永小百合の後継者ともいわれたが[9]、デビュー1年後からは脇役にまわされた[5]。日活が東映ヤクザ映画のマネをして製作した[9]1969年の『日本残侠伝』に出演した際[9]監督マキノ雅弘に勧められ、芸名を梶 芽衣子と改名した[9][10]。改名は成功し、以降不遇時代から抜け出す[2]

1970年の日活映画『野良猫ロックシリーズ』4作に主演し[注 1]人気を得る[1][3]。『大江戸捜査網』=芸者小波 役(東京12チャンネル)などのテレビドラマに日活女優として出演をする[2][10]。『大江戸捜査網』第2シリーズ後半で実妹の太田とも子と共演を果たす。1971年、日活がロマンポルノに移行したため退社しフリーとなる[2]。『大江戸捜査網』の出演が第2シリーズ迄なのはその為で、男優陣(杉良太郎、瑳川哲朗、中村竹弥、古今亭志ん駒)が三船プロに制作会社が移行した後も引き続き出演をしているのに対して、女優陣は梶芽衣子、岡田可愛→古城都、江崎英子に交代をしている[2]1972年3月『純子引退記念映画 関東緋桜一家』を最後に引退した藤純子の後釜として東映に誘われ同年東映に入社した[2][12]

銀蝶シリーズ』の後、『女囚さそりシリーズ』で人気を決定付けた[1][2]。本作でヒロインが台詞を喋らない方が凄みを増すというアイデアは梶が出した[10][12]。若い頃から一家言ある人で、1973年、『女囚さそりシリーズ』の三作目を「監督とスタッフを代えなければ出演には応じられない」と公言した[13]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:137 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef