梶本隆夫
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梶本 隆夫新人年の梶本隆夫(1954年)
基本情報
国籍 日本
出身地岐阜県多治見市
生年月日 (1935-04-08) 1935年4月8日
没年月日 (2006-09-23) 2006年9月23日(71歳没)
身長
体重186 cm
75 kg
選手情報
投球・打席左投左打
ポジション投手
プロ入り1954年
初出場1954年3月27日
最終出場1973年10月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


岐阜県立多治見工業高等学校

阪急ブレーブス (1954 - 1973)

監督・コーチ歴


阪急ブレーブス
オリックス・ブレーブス
オリックス・ブルーウェーブ (1974 - 1985, 1989 - 1993)

中日ドラゴンズ (1998 - 1999)

野球殿堂(日本) 殿堂表彰者
選出年2007年
選出方法競技者表彰
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梶本 隆夫(かじもと たかお、1935年4月8日 - 2006年9月23日)は、岐阜県多治見市出身(山梨県甲府市生まれ)のプロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家。愛称は「梶」あるいは「梶さん」「梶やん」。

弟は元プロ野球選手の梶本靖郎。兄と同じ阪急ブレーブスの投手としてプレーし、通算3勝2敗の成績を残している。このうちの1勝は兄弟でリレーした試合であった。
来歴
プロ入りまで

実家は岐阜県多治見市の「梶本ミシン商会」[1]。梶本が中学生の時に父親が亡くなり、母親が女手ひとつで子育て、仕事を切り盛りした[1]

多治見工業高校では同学年の安藤順三バッテリーを組み、2年次の1952年には秋季中部大会に進むが、1回戦で浜松北高に惜敗。翌1953年春の選抜への出場を逸する。3年次の1953年には夏の甲子園岐阜予選2回戦で郡上高から完全試合(7回コールド)、準々決勝で関一高からノーヒットノーランを記録するなど活躍し、決勝でも岐阜高をノーヒットノーランで降して優勝。三岐大会に進出するが、決勝で津高完封負けを喫し、甲子園出場はならなかった。

プロ3球団から入団交渉を受け、阪急ブレーブスが契約金50万、中日ドラゴンズが120万、最後の読売ジャイアンツ(巨人)が200万を提示したが、最も提示額の少ない阪急入りを決めた。その理由は「高いお金をいただいてダメだったら申し訳ない。だったら一番安いところに」という母親の考えによるものである[1]。一方野村克也の著書によると、阪急に同じ多治見工業OBの先輩である柴田英治が所属していたためという[2]
現役時代

1954年に阪急へ入団。高卒1年目にして監督西村正夫から「どの投手よりも梶本の球が一番速かった」との理由で開幕投手に指名され、3月27日の対高橋ユニオンズ戦に先発、9回に柴田英治の救援を仰ぐが5-3で勝ち、勝利投手となる[3]オールスターまでに12勝を挙げてファン投票で1位で選ばれる[1]。同年は55試合に登板して20勝(12敗)を挙げるも、新人王争いは26勝の宅和本司南海ホークス)に敗れる。ルーキーで20勝しながら新人王に選ばれなかった選手は、2023年現在も梶本ただ一人である。スポーツ新聞では「5000円エース」と称されたが、実際の月給は2万円であった。本人は「その年の8月からいきなり給料が倍額になった」と回想しているが、これは新聞記事によって名を知らしめてくれたことに対するリップサービスである。

2年目の1955年も18勝し、1956年には28勝(17敗)にリーグトップの327奪三振を挙げてベストナインに選ばれるが、大映三浦方義(29勝)に阻まれてわずか1勝差で最多勝を逃した。1957年にも24勝(防御率1.92〔リーグ4位〕)と2年連続20勝、1960年にも21勝を挙げるなどエースとして阪急の「灰色の時代」を支えた。後に入団する米田哲也ヨネカジコンビを形成し、Bクラスが多かった昭和30年代の阪急を支えたが、二人とも年間50試合前後の登板数であり、このタフさがチームの支柱となっていた[4]

この間の1954年7月10日近鉄パールス戦(和歌山県営)では、日本プロ野球史上初となる「1イニングに三者連続三球三振」を達成[5]。さらに、1957年10月18日の南海戦(西宮)で2回目を記録したが、日本プロ野球で複数回達成したのは2023年にリバン・モイネロ福岡ソフトバンクホークス)が記録するまで梶本のみだった[6]。また、1957年7月23日の南海戦(西宮)で達成した公式戦9連続奪三振は、2022年4月10日に佐々木朗希が更新するまで、60年以上もの間、プロ野球記録であった[7]。このときの1人目が投手の皆川睦男。最初は「いつもよりちょっと三振が多いな」くらいにしか思っていなかったが、9人目の三振を奪った時に捕手山下健に「カジ、これ新記録やで」と言われ、急に記録を意識したという。10人目の打者は再び投手の皆川(皆川も好投していたため、代打を出せなかった)であったが、不用意にストライクを取り行ったところをバットに当てられ、センターフライになり、記録が途絶えた。梶本は後に「もし皆川をまた三振に取っていたら20は行ったんじゃないかな」と語っている[8]1959年6月12日の近鉄戦(西宮)で9回2死まで無安打に抑えながら、最後の打者に安打を打たれてノーヒットノーランを逃している。

1960年から1963年にかけ、南海に13連敗を喫するが、これは2018年菊池雄星埼玉西武ライオンズ)が並ぶまで、同一カードにおける連敗のパシフィック・リーグ単独最多記録であった[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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