梶原雄太
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ニックネームカジ
梶原
梶坊
別名義カジサック
生年月日 (1980-08-07)
1980年8月7日(43歳)
出身地大阪府大阪市都島区
血液型B型
身長163 cm
言語日本語
方言大阪弁首都圏方言
最終学歴太成高等学校電子機械科
出身NSC大阪校22期
コンビ名キングコング
相方西野亮廣
立ち位置右
事務所吉本興業
活動時期1999年 -
同期NON STYLE
ダイアン など
他の活動YouTube
配偶者一般人女性(2003年 - 2004年
園田未来子(2007年 - )
親族梶原冬詩(長男)
梶原叶渚(長女)[1][2]
梶原寅次郎(次男)
梶原千鈴(次女)
梶原羽留(三女)
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カジサック KAJISAC
YouTube
チャンネル

カジサック KAJISAC

活動期間2018年10月1日 -
ジャンルエンターテイメント
登録者数244万人
総再生回数1,871,485,541回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2018
登録者1,000,000人2019

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-10-04-00002023年10月4日時点。
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梶原 雄太(かじわら ゆうた、1980年昭和55年〉8月7日 - )は、日本お笑いタレントYouTuber声優お笑いコンビキングコングボケ担当。相方は西野亮廣吉本興業所属。

大阪府大阪市都島区出身[注釈 1]、太成高等学校電子機械科(現:太成学院大学高等学校)卒業[3]。5児の父。三男の末っ子。

また、2018年10月から「カジサック」の芸名でYouTubeチャンネル『カジサックの部屋』を開設する[4][5][注釈 2]。由来は自身が出演していたテレビ番組『はねるのトびら』(フジテレビ系列)の本人曰く非常にスベったコントで演じたキャラクター名から[6]

梶原 雄太の部屋
YouTube
チャンネル

梶原雄太の部屋

活動期間2021年7月1日 -
ジャンルホームビデオ
登録者数20万人
総再生回数69,361,342回
YouTube Creator Awards

登録者100,000人2021

チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002022-12-10-00002022年12月10日時点。
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来歴
生い立ち

1980年8月7日、大阪府岸和田市で母親が31歳の時に帝王切開で誕生[7]。梶原が産まれる前、母が妊娠したが、父は「家計的にも辛いから下そう」という考えだった。母は「全部働いて、なんとかするからどうしても産ませてください」と告げるも父は納得せず、母は「だったら別れよう」と言い、父は納得したため梶原が誕生した。梶原は「オカンがその意志を貫いてくれたから、オレが産まれてんねん」と述べている。

小学1年生の時に、梶原が誕生日の日にファミリーレストランでご飯を食べに行き、誕生日プレゼントを買ってから帰宅した時に、襖が破れていたり、父親が部屋の中央で倒れていた[8]。その後、両親が離婚。その後親権を決めるために、父親か母親かどっちに行くかという話し合いをした。後々聞いた話では母親の考えでは3人全員育てるという考えだったが、父親は雄太だけは渡さないという考えだった。そこで父親が「本人の気持ちを聞かないと分からない」という提案を出し、子供1人ずつ父親か母親かどっちに行くかという話になる。父親は雄太に気に入られていると思っていたらしいが、梶原は迷わずオカンと答え、結果的に母親が3人を育てる。

当時は大阪府岸和田市に住んでいたが、両親の離婚により大阪市都島区に引っ越す。転校をした時に、自己紹介の後、お辞儀をして顔を上げると同時に変顔をした。周りは大爆笑になった。その日から他のクラスからも「変顔して」などと注目されたが、やっかみもあったという。

小学4年生の時に少年野球に入るも、小学5年生の時にサッカーの顧問の先生に誘われ、野球を辞め、サッカーを始める。当時5年生でレギュラーを取り、6年生で大阪代表に選ばれる。この時にJリーグが発足され、夢がJリーガーになるが、小さな引き出しにお笑いしたいという気持ちもあった。

中学に上がるとサッカー部がなかった。大阪市で1位になるほど強いサッカーチームに入るも、中学2年生の時にはお笑いをしたいという気持ちが高まった。

中学3年生の時に「母親にお笑い芸人になろうと思うねん」と告げるが、母親は「嫌やな。お尻出すやろ。芸人さんはお尻出すイメージがあるねん。雄太が奇跡的にテレビに出られたとしても、お尻を出すことは嫌やな」と断られる。しかし「お尻出さん」と約束すると、母親は「じゃあいいよ」とあっさり了承を得たものの、芸人の世界は甘くないと話す。そこで梶原は高校を卒業して5年間で結果出すから、結果が出なかったらやめると決意。余談だが、はねるのトびらの深夜時代に放送されていた今日のわんこで尻を出した。後にYouTubeのサブチャンネルで投稿されているカジサックの屋根裏部屋で謝罪している[9]

NSC在学中に素人名人会から声が掛かり漫才をした。当時NINNIN丸というコンビ名で吉田という人と活動していた。コンビ名で出るのは変だったため吉田・梶原で出演した。ちなみに出演約30分前に西野に電話した後西野が駆け付け、扉が開いたときにNINNIN丸の漫才が始まっていたと述べている。その後素人名人会の賞を取っている。
芸人デビュー

NINNIN丸を解散する前、吉田が西野とコンビを組んでくれとダメ元で言うも断られる。梶原曰く吉田は「カジは西野とコンビを組むと思ったから、先に俺が動きたくてちょっと下品な真似をしてしまった」と述べ謝罪し、その後「お前ら2人やったら絶対売れるから」と2人の活動を応援し、解散。現在吉田は警察官をしているとのこと[10]

1999年9月、キングコングを結成。

2001年に『はねるのトびら』のレギュラーに選ばれる。番組内ではボケ役を担当し、相方の西野とともにリーダーシップを取ることが多かった。
失踪からの復帰

2003年2月、ストレスによる心身症を発症したことで失踪[11]、一時消息不明になった。当時、新幹線の車内で新横浜を過ぎてから体の震えが止まらなくなっており、ゆりかもめに乗ることも怖くなっていたほか、木村祐一が監修する番組でそれ用のネタが思い付かず、出番直前にトイレに隠れたりもしていたという。心身症を発症してからの3日間の記憶は全くなく、現在でも記憶がないという。後々聞いた話では兵庫県宝塚市のカラオケボックスにいたという。親には連絡しないといけないと思い、携帯電話の電源をオンにした瞬間に、FUJIWARAの藤本から着信があり「戻って来いとは言わん。とにかく休みや。自分で抱えるな。病院へ行きなさい」と病院へ行くことと休むことを勧められ、病院に行ったところ心身症と診断された(症状は対人恐怖症記憶喪失、自虐症)。失踪してから1か月、梶原は中型免許を取ることと、プロボウラーになることを決意。中型免許を取るために教習所に通い始めたときに、元ババリア三浪と鉢合わせる。しかし、三浪は「お前免許取りたいのか?じゃあ取ったらいいじゃないか。俺は誰にも言わないから好きなことしなさい。俺が付き合ったるから」と言われ、そこから三浪と週3・週4で会っていた。プロボウラーになろうとした理由は、教習所の先生がボウリング好きで、三浪と先生に褒められたのがきっかけ。当時最高スコアが286という高スコアを叩き出し、10回連続ストライクも叩き出した。失踪から2か月後、母から「西野君が待ってくれてるで。あんたはいつまでそうしてるん?」との電話があった。梶原は西野が待っていた事実に驚愕するも「今から謝りに行っても良いですか?」とメールを送り、西野は「いいよ」と承諾した。しかし、梶原が西野の家に謝罪に行った際、西野は上半身裸でキャップを横被りし、ジーンズをはいて、ギターを弾いていたため、梶原は新しい拷問が始まるのかと思っていた。だが梶原が陳謝した際西野はギターを弾き「ええで」とあっさり快諾した[12]。しかし、西野はバイクの免許を取ったことと、ボウリングで凄いスコアを取っていることを知っていて、実は三浪は全て話していた。しかし三浪は、梶原が消息不明の中生きていることを知らせていたため、西野はそれを聞いて安心したと述べている[13]。そして、梶原は5月、無事に芸能界復帰を果たした[注釈 3]


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