梶原景時
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 凡例梶原 景時
馬込万福寺蔵の梶原景時像
時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕保延6年(1140年[1]
死没正治2年1月20日1200年2月6日
別名平三(へいざ、へいぞう)
戒名龍泉院梶勝源公
墓所梶原山公園(静岡市清水区)の梶原堂
鎌倉市深沢小学校敷地内の五輪塔
東京都大田区万福寺
兵庫県南あわじ市の神宮寺
幕府鎌倉幕府侍所所司、別当
十三人の合議制
主君源頼朝頼家
氏族桓武平氏良文鎌倉氏梶原氏酒匂氏
父母父:梶原景清、母:横山孝兼の娘
兄弟景実[注釈 1]、景時、朝景
妻鹿野尼
景季景高景茂、景義、景宗、景則、景連
特記
事項所領である相模国一宮(現・神奈川県寒川町)に館を構える。
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梶原 景時(かじわら かげとき)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将鎌倉幕府の有力御家人

石橋山の戦い源頼朝を救ったことから重用され侍所所司、厩別当となる。当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。源義経と対立した人物として知られるが、頼朝の信任厚く、都の貴族からは「一ノ郎党」「鎌倉ノ本体ノ武士」と称されていた。鎌倉幕府では頼朝の寵臣として権勢を振るったが、頼朝の死後に追放され一族とともに滅ぼされた(梶原景時の変)。
生涯
頼朝への臣従

梶原氏坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族である。曾祖父、または従曾祖父に後三年の役源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景正がいる(梶原氏の祖・景久の従兄弟)。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱源義朝が敗死した後は平家に従っていた。

治承4年(1180年)8月、源頼朝が挙兵して伊豆国目代山木兼隆を殺した。景時は大庭景親とともに頼朝討伐に向かい、石橋山の戦いで寡兵の頼朝軍を打ち破った。敗走した頼朝は山中に逃れたが、大庭景親は追跡を続け、山中をくまなく捜索した。『吾妻鏡』によると、この時、景時は飯田家義ともども頼朝の山中の在所を知るも情をもってこの山には人跡なしと報じて、景親らを別の山へ導いたという。土肥の椙山のしとどの窟

源平盛衰記』ではより詳しくこの場面が述べられている。敗軍の頼朝は土肥実平岡崎義実安達盛長ら6騎としとどの窟の臥木の洞窟(現在の湯河原町)へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。

一方で『愚管抄』には「サテ治承四年ヨリ事ヲ起シテ打出ケルニハ。梶原平三景時。土肥次郎実平。舅ノ伊豆ノ北條四郎時政。」とあり、挙兵当初から頼朝に従っていた可能性も指摘されている。

その後、頼朝は安房国へ逃れて再挙し、千葉常胤上総広常ら東国武士が続々とこれに参じて大軍に膨れ上がり、10月に鎌倉に入った。頼朝は平維盛率いる平氏軍を撃破し、大庭景親は捕えられ斬られた。12月に景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏。翌養和元年(1181年)正月に頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられた。時期は不明だが景時は侍所所司(次官)に任じられている。

寿永2年(1183年)12月、上総広常と双六を打っていた景時は、にわかに盤をのりこえて広常の頸をかき斬り討ち取った。広常に謀反の企てがあるとの噂があり、頼朝が景時に命じて殺させたものだった。後に謀反の疑いは晴れて頼朝は後悔しているが、広常は鎌倉政権軍の中でも飛びぬけて大きな兵力を擁しており、そのために不遜な振る舞いが多く、また上洛して平氏を倒すよりも関東での割拠を指向しており、武家政権の樹立を目指す頼朝にとって危険な存在であった。
義経との対立

寿永3年(1184年)正月、景時父子は源義仲との宇治川の戦いに参陣。源義経配下の嫡男・景季佐々木高綱と先陣を争い武名を上げた。戦後、源範頼・義経・安田義定らは戦勝を鎌倉へ報告したが、いずれも「勝ちました」程度の簡単なものであったところ、景時の報告書だけが義仲の討ち取られた場所、様子、おもだった敵方の武将の死者と討ち取った者の名前など詳細に戦果を記しており、頼朝はその事務能力・実務能力の高さを喜んだ。

同年2月7日の一ノ谷の戦いでは最初は景時が義経の侍大将、土肥実平が範頼の侍大将になっていたが各々気が合わず所属を交替している。範頼の大手軍に属した景時、景季、景高父子は生田口を守る平知盛と戦い、大いに奮戦して「梶原の二度駆け」と呼ばれる働きをした。合戦は源氏の大勝に終わり、この戦いで景季は平重衡を捕えている(『平家物語』、『源平盛衰記』)。

2月18日、景時は土肥実平とともに播磨備前美作備中備後5か国の守護に任じられた。

景時は平重衡を護送して一旦、鎌倉へ戻り、4月に土肥実平とともに上洛して各地の平氏所領の没収にあたった。8月に範頼が平氏討伐のため鎌倉を発向し、中国地方から九州へ渡る遠征に出た。義経は頼朝の勘気を受けて平氏討伐から外されていた。『吾妻鏡』に景時の淡路島などでの活動がみられ、また、頼朝から範頼に対して実平、景時とよく相談して遠征を遂行するようにとの命令があり、範頼に従って西国の占領にあたっていた。逆櫓の松趾碑

兵糧や兵船の調達に難渋した範頼が苦戦したことから、元暦元年(1185年)正月、頼朝は義経の起用を決めて摂津国で軍を編成させ、讃岐国屋島の平氏の本営を衝かせることにした。


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