梶原完
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梶原完 - ピアニスト
基本情報
生誕 (1924-11-09) 1924年11月9日
中華民国 上海
出身地 日本
死没 (1989-07-29) 1989年7月29日(64歳没)
ドイツベッツドルフ
学歴東京音楽学校
ジャンルクラシック音楽
職業ピアニスト、音楽教師
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

梶原 完(かじわら ひろし、1924年大正13)11月9日 - 1989年平成元)7月29日[1])は、日本出身のピアニスト、音楽教育者[2]。日本で演奏活動を始めた後、1954年にドイツに渡り、ヨーロッパ各地で演奏を重ねる。1960年からドイツ西部のベッツドルフにあるアドルフ音楽院でピアノのレッスンを始め、演奏活動を続けるかたわら多くの生徒を育てた[2]
生い立ち

梶原完は、父梶原國生と母恒子の次男として、1924年11月9日に上海で生まれた。長野県出身の父は満鉄調査部上海事務所に勤めており、音楽を愛する学究肌の人物だった。同じく長野県出身の母は、女子高等師範学校を首席で卒業し、仙台で教師を務めた後に、結婚まで東京の東洋英和女学院でも教えていた。結婚後1923年に長男恒生が生まれ、上海配属となった父は妻子と共に海を渡り、その地で生まれたのが完である[3]

アヘン戦争後に西欧列強の租界となっていた上海には、多くの西洋人が母国の文化を享受するための劇場や公園などが整備され、1920年代にはヨーロッパと同じプログラムの演奏会が開催されるようになっていた[4]。そうした環境にいた完は、父の蓄音機で西洋音楽ばかり聴いて育ち、夏には公園で開催される野外音楽会に家族ででかけていた[5]。また母恒子の務めた上海の日本高等女学校の音楽担当に、東京音楽学校器楽部を卒業した成田蔵己がいて、父國生と意気投合して上海音楽研究会を組織していた[6]。しかし次第に戦争の足音が近づき、兄恒生が学齢期に達することもあり、母と二人の息子は1928年に帰国、本郷西片町に住むことになった[7]

1931年本郷の誠之小学校に入学したが、おそらくその前から母の手ほどきでピアノを弾くようになっていた。その後東京音楽学校講師の田中規矩士に、後に同じく東京音楽学校教授萩原英一にピアノを師事した。二人の師は共にドイツ留学の経験があった[8]。6年生のころには東京音楽学校卒業後ドイツに留学し、帰国後ピアニストとして活躍していた福井直俊に師事している[9]。1937年に東京府立第七中学校(後の都立墨田川高等学校)に入学。1940年の学芸大会ではショパン幻想即興曲』やベートーヴェン月光ソナタ』などを披露する腕前だった[10]
日本での音楽活動
東京音楽学校

1941年9月に東京音楽学校予科に入学、翌年本科生となる。既に太平洋戦争が始まり、音楽界も統制の波が押し寄せ、東京音楽学校にも報国団が結成された[11]。梶原は報国団演奏会(学内演奏会)に1942年から44年まで8回出演し、スメタナシューマン、ショパンなどのピアノ曲や室内楽を演奏した[12][13]。一方で読譜が速く初見能力も高かったので、他のソリストの伴奏者としても活躍した[14]
陸軍戸山学校軍楽隊

1944年9月に東京音楽学校本科器楽部ピアノ科を繰り上げ卒業した[15]。その前に乗杉嘉壽校長と山口常光軍楽隊長との計らいで陸軍戸山学校軍楽隊の入隊試験を知らせる貼り紙が学校に貼りだされ[16]、何人もの生徒と応募し、合格していた。10月に入隊した120名のうち音楽学校からの同期生は14人で[17]芥川也寸志、石津憲一、伊藤栄一、内田富美也、奥村一、北爪規世、斎藤高順、鈴木良一、團伊玖磨、沼田元一、萩原哲昌早川博二、藤嶋義勝、そして梶原完であった[18]

軍楽隊では生徒としてオーボエやクラリネットを割り当てられたが、その練習時間の多くはピアノを弾く方に費やされた[19]。1945年4月13日の空襲で戸山学校は焼失したが、隊員や楽器は防空壕に入っていて無事だった[20]。5月には卒業式があり[21]、生徒たちは上等兵となって日本橋高等女学校に移った[22]。そのまま8月に終戦を迎え、軍楽隊は解散した[23]
日本での演奏活動

終戦後に東京音楽学校では乗杉校長が辞職し、10月に文部省学校教育局長田中耕太郎が校長事務取扱となり、11月3日の初登校の日の午後には、梶原の独奏会を鑑賞した[24]。この日のための練習かどうかは不明だが、10月21日に梶原が奏楽堂でピアノを弾く写真が遺されている[25]。1946年10月には東京音楽学校ピアノ科教務嘱託となった[26][15]。翌11月に開催された戦後初の芸術祭(大学祭)では、11月9日に共立講堂で開かれた「洋楽演奏会・教官演奏会」に出演[注釈 1]ラフマニノフ『前奏曲』やドビュッシー『月の光』などを独奏し、R.シュトラウスの歌曲を歌う畑中良輔の伴奏を務め、宅孝二の2台ピアノのための作品を作曲者と二人で演奏した[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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