梶原一騎
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本名高森 朝樹(たかもり あさき)
生誕 (1936-09-04) 1936年9月4日
日本東京市浅草区石浜(現・台東区
死没 (1987-01-21) 1987年1月21日(50歳没)
日本東京都新宿区河田町東京女子医科大学病院[1]
国籍 日本
職業漫画原作者
小説家
映画プロデューサー
活動期間1953年 - 1987年
ジャンルスポーツ漫画劇画
代表作『巨人の星』(画:川崎のぼる
あしたのジョー』(画:ちばてつや
タイガーマスク』(画:辻なおき)他多数
受賞第8回:講談社児童まんが賞(『巨人の星』)
2005年:東京アニメアワード特別功労賞(原作者部門)
公式サイト ⇒梶原一騎 Official Site
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梶原 一騎(かじわら いっき、1936年9月4日 - 1987年1月21日)は、日本漫画原作者小説家映画プロデューサー。本名は高森 朝樹(たかもり あさき)。高森 朝雄(たかもり あさお)の筆名も使用した。格闘技やスポーツを題材に、男の闘う姿を豪快に、ときには繊細に描き出し、話題作を次々と生み出した。自身の型破りで豪快な生き方や数々のスキャンダルでも話題を呼んだ。身長180cm、体重85kg。空手五段、柔道二段(1983年7月28日の自己申告)[2]

1966年から『週刊少年マガジン』に連載された漫画巨人の星』の原作者として名声を上げ、以後『あしたのジョー』(高森朝雄名義)、『タイガーマスク』など、いわゆる「スポ根もの」分野を確立した功績をはじめ、多くの劇画・漫画作品の原作者として活躍した。

弟は漫画原作者、空手家真樹日佐夫。妻は高森篤子(1945年3月5日 - 2015年4月6日)。1973年から1985年にかけて離婚期間があり、その間の1979年から81年にかけて台湾の有名タレント、白冰冰(パイ・ピンピン)とも婚姻関係を結ぶ。高森篤子との間に2人の娘と3人の息子がおり、白との間に娘・白暁燕(パイ・シャオイェン)がいた。
経歴
生い立ち

東京市浅草区石浜(現 台東区橋場)の木賃アパートで知的でインテリ[3]な父・高森龍夫と情念の深い母・高森や江(旧姓:佐藤)の間に三兄弟の長男として生まれ、まもなく両親とともに渋谷区隠田1丁目(現在の神宮前4・6丁目周辺)に移った[4]。父方の祖父が熊本県阿蘇郡高森町周辺の出身であるだけで、梶原自身と九州との関わりは宮崎県への1年の疎開と福岡県小倉市(現在の北九州市)の親戚の家へ預けられたという程度である[5][6]

弟の真樹日佐夫によれば「兄の朝樹は、父方の知的な高森家と、大柄で激烈な気性の持ち主ばかりだった母方の佐藤家の遺伝子の「合作」だった」とも語っている。

幼少時から非常に凶暴で喧嘩っ早く目立ちたがり屋な気質が現れていた。戦中の1943年に、父の龍夫が師範科時代に在籍していた学校である私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学するものの、朝樹の持つ荒い気質と校風は水と油のようなもので、クラスメートや上級生の子供達とも衝突ばかり起こしていた。この頃すでに梶原は体が大きく太り気味だったので、同級生も敵わぬと見たのか上級生とつるんで逆襲してくるため、梶原はいつも生傷が絶えなかった。その上級生を奇襲し血染めにしたことで、母親が学校から呼び出されることになり、梶原はわずか1年生にして退学。家の近くの公立小学校に入れられた。その際に担任の教師に叱り付けられ「あなたは、こういう学校には向かない子です!普通の学校に行った方がいいのではありませんか」と罵られ、この言葉に朝樹は子供心にも傷ついた。

公立小学校時代は同級生に、雑誌『暮らしの手帖』編集長花森安治の長女葵がいる。梶原は取れたボタンを付けてもらった等の思い出があり、淡い思いを抱いていたというが、当の葵は「高森くん」という同級生がいたことは覚えていたものの、それ以上の詳しい記憶はないという[7]

その後、1945年に入ると東京が連合国軍機の空襲を受けることになったため、梶原を含めた高森一家は仕事のある父を東京に残し、ミカン山を営んでいた父の叔父である林進士が住む宮崎県東臼杵郡富島町(現在の日向市)に疎開。しかし、現在家督を継いでいる林晴夫の話によれば、富島町亀崎村の日向灘を見下ろす山の中腹にあった林家の裏手のミカン畑は当時開墾されて間もなく、まだ苗を植えたばかりだったから、さしたる収穫がなかった。それよりも自給自足の耕作が必要で当時8歳だった朝樹は、母と共に肥やしを担ぎ、苗の隙間で芋を育てては掘っていた。

戦後、川崎市に転居。このころ教護院「新日本学園」で1年を過ごしている[8]。のち東京都大田区蒲田に移り、大田区立相生小学校に学ぶ[9]。小学生時代、蒲田に転居した直後から駅前のマーケットで万引きやかっぱらいを繰り返し、たびたび補導されたが改悛の情なく、弟の真土(真樹日佐夫)まで引き込むようになったため[10]、両親の配慮で青梅市教護院東京都立誠明学園」に送られ中学相当の3年間を過ごす[11]

誠明学園在学中は寮から少なくとも二度脱走している(一度目は自宅に到着する前に連れ戻された)[12]。なお「梶原」とは誠明学園時代に恋仲で結婚まで考えていた娘の苗字に由来する筆名である[13]。のち真樹日佐夫は高校時代に空き巣狙いを繰り返して鑑別所に送られたが、担当刑事から共犯者の存在を示唆された母は梶原に疑いの目を向けた[10]

東京都立芝商業高等学校を半年ほどで中退[14](本人は長らく早稲田大学卒と詐称していた。例えば、ごま書房刊の「息子の鍛え方」の裏表紙には、早稲田大学卒業と記述されていた)。父の高森龍夫は、梶原の出生当時、中央公論社で校正の仕事に従事していたが、のちに改造社へ移り、編集者となる。また弟の真樹日佐夫や妻の篤子によれば、梶原の両親は弟などには愛情を注いでいたのに対し、梶原がいくら頑張っても認めようとはしなかったという[15]
小説家・漫画原作者として

その一方、文学青年の一面を持ち小説家を志していた[16]。1953年、17歳の時に「梶原一騎」のペンネームでボクシング小説「勝利のかげに」を雑誌『少年画報』に応募し、見事入選を果たす。17歳の少年小説家「梶原一騎」の誕生である。以来、スポーツ物の少年小説を多数執筆するようになるが、雑誌の中で少年小説に代わって漫画が誌面を占めるようになったため、梶原の活躍の場が狭まる事となった。

東京中日スポーツで『力道山物語』を連載し、好評を得て、力道山から直々に電話をもらい、力道山と親密な関係となる。その頃、『力道山物語』の評判を聞きつけた『週刊少年マガジン』初代編集長・牧野武朗が梶原の元を訪ね、プロレス漫画『チャンピオン太』(画・吉田竜夫)の連載(原作)を依頼。1962年から連載開始した同作は人気を博し、テレビドラマ化され、その際、梶原本人が力道山に本人役の依頼を交渉。テレビも好評であった。

その後は生活のため『チャンピオン太』などで漫画の原作を担当する日々を送っていたが、自分の本意ではない漫画原作を続ける事に抵抗があり、やめようかと悩むようになる。

その時、『週刊少年マガジン』の当時の編集長・内田勝と副編集長・宮原照夫が梶原の元を訪れ「梶原さん、マガジンの佐藤紅緑(少年小説の第一人者)になって欲しいんです」と口説かれ、それまで悩んでいた梶原の気持ちに火がつき、1966年、野球漫画『巨人の星』(画:川崎のぼる)の連載を開始。連載当初から人気が高く、1968年にはテレビアニメとなり、視聴率30%を超える空前の大ヒットとなった。

『巨人の星』を皮切りに『柔道一直線』『夕やけ番長』を連載。どちらもヒット作となり、特に『柔道一直線』は桜木健一主演でドラマ化され、大ヒットとなった。

1968年に『週刊少年マガジン』誌上でボクシング漫画『あしたのジョー』(画:ちばてつや)を連載。『巨人の星』との差別化を図るためペンネームを梶原一騎ではなく、本名の末字を変えた「高森朝雄」とし、爆発的な人気を呼ぶ。主人公・矢吹丈のライバルである力石徹の死に講談社では葬儀が執り行われ、600名もの弔問客が集まった。また当時起こった「よど号ハイジャック事件」では実行犯グループのリーダー・田宮高麿が「我々は明日のジョーである」という声明文を発表するなど社会現象となった。

それ以降も『タイガーマスク』『赤き血のイレブン』『キックの鬼』『空手バカ一代』『侍ジャイアンツ』などヒット作を量産する。

1973年に『愛と誠』の連載を発表。それまではスポーツものの原作を手がけて、いわゆる「スポ根作家」のイメージが強かったが、同作では梶原版「ロミオとジュリエット」を意識した純愛山河を手がけ、ドラマ、映画化され、大ヒットとなる。1975年に講談社漫画賞を受賞。
映画界への進出

松竹映画化されたことにより、芸能界のひのき舞台へ出る[17][18][19]1974年、同作のテレビドラマ化にあたり、オーディションで選ばれた池上季実子を池上の所属プロから引き抜き[18][20]、梶原プロダクションを設立[18][20]。映画界への進出を企て[19]、梶原原作漫画のアニメ化で親交のあった東京ムービー社長の藤岡豊石原プロモーションで映画のプロデュースを行っていた川野泰彦と1975年に「三協映画」を設立した[19]。「三協」の意味は「三人で協力する」という意味合いである。いくらヒットを飛ばそうと、独立プロのトップは、メジャー映画会社のトップと飲み食いすることはないが[17]、梶原を原作とする、製作する映画がヒットを続けることで、松竹や娯楽性の豊かさに目をつけた東映[19]、梶原を大事にするようになった[17][21]。こうして単なる劇画作家から、プロデューサー、芸能プロダクションのトップというイメージを手に入れる[22]。この頃から、当時の映画界の四巨星といわれた東映の岡田茂東宝松岡功大映徳間康快、松竹の奥山融とも一緒に飲み食いする立場となり、芸能界に顔を利かせるようになった[17]

三協映画では、文芸路線、格闘技路線、梶原原作漫画のアニメ化の三つの路線があったが、経営的には格闘技もので上げた収益を文芸もので使い果たすことの繰り返しであった。なお、1977年に自身の原案をもとに、鈴木清順が監督をした10年ぶりの作品『悲愁物語』を撮らせている[19]

自身の漫画から産まれたキャラクター「タイガーマスク」が現実に新日本プロレスでデビューしたことが契機となって、梶原は1980年代から、かねてから縁のあったプロレス界にも深入りするようになる。


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