梵英心
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梵 英心オリックス・バファローズ 内野守備・走塁コーチ #77
広島東洋カープ選手時代
(2012年9月8日 マツダスタジアム
基本情報
国籍 日本
出身地広島県三次市
生年月日 (1980-10-11) 1980年10月11日(43歳)
身長
体重173 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション遊撃手三塁手
プロ入り2005年 大学生・社会人ドラフト3巡目
初出場2006年3月31日
最終出場2016年9月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


広島県立三次高等学校

駒澤大学

日産自動車

広島東洋カープ (2006 - 2017)

エイジェック

コーチ歴


エイジェック

JFE西日本

オリックス・バファローズ (2021 - )

日本代表 (2023 - )

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梵 英心(そよぎ えいしん、1980年10月11日 - )は、広島県三次市出身の元プロ野球選手内野手、右投右打)、プロ野球コーチ。現在はオリックス・バファローズの内野守備・走塁コーチを務める。
経歴
プロ入り前

実家は浄土真宗本願寺派専法寺。永川勝浩とは三次市の同じ少年野球チームに所属した幼なじみ。高校時代も1度だけ公式戦で対戦があり、この時は3打数3安打だった。しかし大学野球時代は永川から1本もヒットを打てなかった。三次高校時代は、2年夏のベスト16が最高、3年夏は2回戦敗退(広島工に惜敗)。東都大学野球駒澤大学に進学し、2年秋からレギュラー。4年春に最下位となってチーム初の2部降格を経験。1部リーグ通算42試合に出場、141打数33安打、打率.234、2本塁打、11打点を記録。駒大では2学年先輩に武田久、1学年先輩に稲田直人川岸強前田大輔、1学年後輩に古谷拓哉、2学年後輩に服部泰卓、3学年後輩に新井良太がいた。卒業後は、社会人野球日産自動車に入社。第76回都市対抗野球大会ではチームの準優勝に大きく貢献。首位打者を獲得し、久慈賞を受賞した。その年オランダで行われたIBAFワールドカップでは日本代表に選ばれ、2005年社会人野球ベストナインを受賞した。

2005年のNPB大学生・社会人ドラフト会議で、地元球団の広島東洋カープから3巡目で指名。契約金1億円、年俸1400万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は32。
広島時代

2006年は、オープン戦の活躍で開幕一軍を勝ち取り、ナゴヤドーム中日ドラゴンズとの開幕戦に6番・二塁手スターティングメンバーに抜擢される。カープでの新人開幕スタメンは1969年山本浩司以来37年ぶり。更に1961年山本一義以来45年ぶりのヒットも放った。アマチュア時代は遊撃手だったが、プロ入団後は二塁手の守備にも就くようになった。プロ入り当初は強肩と俊足を生かし守備範囲は広かったが、捕球→送球の動作が俊敏でなかった為、遊撃手の見せ場の一つである間一髪のダブルプレーがアウトにできなかった。

開幕直後は攻守にミスが目立ったが、マーティ・ブラウン監督が辛抱強く起用し続けた結果、開幕当初1割にも満たなかった打率を3割近くに上げ、好守も見せるようになるなど短期間で攻守ともに急成長。また得点圏打率は3割5分を超え、狭い広島市民球場を本拠地とする右打者ながら両リーグ通じて単独トップとなる8本の三塁打を放った。盗塁もチームトップの13個。東出輝裕と二遊間を守り、広島打線の1、2番コンビとして定着した。7月13日の阪神タイガース戦(甲子園球場)で先制ソロに適時打を含む2二塁打を放ち、守備ではファインプレーも飛び出し、その日のお立ち台に立った。そのヒーローインタビューで、試合中マウンドへ寄った(投手・黒田博樹)時のことを聞かれて「黒田さんがワンパターンなリズムで投げてたので間を置きたかった」と新人にもかかわらず大胆な発言をした。9月7日の横浜戦(下関球場)でエンタイトル二塁打を放ち、1958年小坂佳隆が記録した新人安打数球団記録(112本)を48年ぶりに更新した。しかし、9月26日の試合前の練習中、コーチのノックがイレギュラーして右目を直撃、検査の結果「右眼窩部打撲」と診断され登録抹消。横浜・吉村裕基中日佐藤充と争ってきた新人王争いにはまだまだアピールが必要であり、また、新人でありながらチームの攻守の要であるため梵本人は勿論、チームにとっても非常に痛い戦線離脱であった。その日はベンチ裏で人目もはばからず号泣。そして10月14日の阪神戦で復帰し、8回に代打出場。そのまま守備に就き、打球も無難に処理しファンを安堵させる(守備時には未だ赤い目に防御用ゴーグルを着用であった)。

最終的には打率.289、安打数130という結果でルーキーシーズンを終えた。その結果、横浜の吉村裕基に倍以上の票差をつけて入団会見での公言通り、2006年度の新人王獲得。広島の新人王は1997年澤崎俊和以来9年ぶり、野手では1984年小早川毅彦以来2人目である。同学年(松坂世代)で二遊間を組む東出と2人でゴールデングラブを受賞することを目標とし、秋季キャンプで東出と常に行動を共にするなど、息を合わせるようにしていた。

オフに背番号を6に変更。また、実家であるお寺を、ブラウン監督が直々に訪れている。12月16日に男児が誕生する。梵の新人王受賞を記念して、地元三次市の ⇒白蘭酒造が清酒『英心』を発売した。720mlの本醸造酒で、梵英心のサイン入りポストカードが1枚付いている。2006-2007のオフにローカルラジオ番組DO THE CARPにてDJの一人を務める。その際リスナーからDJ名が公募され、「DJ-Ashin」と名付けられた。

2007年は、バットを前年よりも長く持ち、長打も狙って行くスタイルに切り替えを図ったのが功を奏してか、18本塁打を記録。しかしポップフライや三振が増える等、1番打者としては淡白な打撃になった。シーズン後半には6番として出場するなど、長打力を活かした配置転換を試され、前年に比べて大きく打撃スタイルが変化した。ただし打率こそ大きく落ちたものの安打数は前年に比べて増えており(打席数が増えたことも要因ではあるが)、四球数も前年27個に対し、51個選んだ。これは長打力の向上や1年目の活躍により相手投手から警戒され、コーナーをつく球が増えたこと、それを見極める力が向上したことによる。守備面も向上を見せ、ショートとしては両リーグ唯一の100併殺を達成。失策はショートではセ・リーグ最多だったが、RF(レンジファクター)(守備率を参照)は両リーグでも1位だった。

2008年は、開幕を2番打者として迎えるが、開幕から前年以上の低打率に陥り、また長打もほとんど出なくなる。4月末にプロ入り初の不調が原因による二軍落ちを経験。一軍復帰後は打順を7番・8番などの下位に下げて起用されたものの、夏場には打率2割を切るまでに至り、再び二軍落ちを余儀なくされる。調整を経てすぐに一軍に復帰したものの、新人の小窪哲也に正遊撃手のポジションを奪われ出場機会は大きく減少した。最終的に97試合の出場で打率.223、1本塁打、17打点、8盗塁と、あらゆる部門で自己最低の成績に終わった。守備面ではエラーこそ多かったものの、RFを発展させたRRFでは鳥谷敬をわずかにしのぎセ・リーグ1位であった(ただし、鳥谷より出場試合は40試合以上少ない。また両リーグ合わせると金子誠がトップ)。


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