梨本宮守正王
梨本宮
続柄
久邇宮朝彦親王第4王子
崇光天皇男系16世孫
霊元天皇女系7世孫
身位王 → 臣籍降下
敬称殿下 → 臣籍降下
出生1874年3月9日
日本・京都
死去 (1951-01-01) 1951年1月1日(76歳没)
日本・東京都渋谷区
埋葬豊島岡墓地
配偶者守正王妃伊都子(鍋島伊都子)
子女方子女王
規子女王
父親久邇宮朝彦親王
母親原田光枝子
栄典 大勲位菊花章頸飾
役職 元帥陸軍大将
皇典講究所総裁
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梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年〈明治7年〉3月9日 - 1951年〈昭和26年〉1月1日)、または梨本 守正(なしもと もりまさ)は、日本の旧皇族、陸軍軍人。梨本宮家第3代当主。官位は元帥陸軍大将。栄典は大勲位功四級。明仁上皇の大叔父にあたる。また、娘の方子は、大韓帝国最後の皇太子で日本の王公族だった李王垠に嫁いでいる[1]。 久邇宮朝彦親王の第4王子として1874年に誕生。当初は多田と名付けられたが、梨本宮家相続にあたり、守正と改名した。梨本宮家は初代守脩親王のあと、山階宮家出身の菊麿王が後継者となったが、のちに実家を継ぐことになったため梨本宮家を離れ、代わって守正王が相続したものである。このため、実際には3代目であるが、公式には守正王が2代目とされる。 1894年(明治27年)3月、満20歳となり貴族院議員に就任[2]。1896年(明治29年)に陸軍士官学校卒業後、歩兵第11連隊附[3]。1903年(明治36年)にフランス留学。これに先立つ、1900年(明治33年)に鍋島直大侯爵の二女伊都子と結婚。方子女王、規子女王の2女をもうける。1904年(明治37年)11月3日に大勲位菊花大綬章を受章した。 日露戦争では、参謀本部勤務。次いで第3軍付き武官として出征した。この功績により、1906年(明治39年)4月1日に功四級金鵄勲章を受章。日露戦争の勝利後再度フランス留学。フランス陸軍大学校卒業。第一次世界大戦では第16師団長など部隊長を歴任し、陸軍大将に累進し、元帥の称号を賜った。1940年(昭和15年)4月29日には大勲位菊花章頸飾を受章。軍事参議官、日仏協会総裁、在郷軍人会総裁、大日本武徳会総裁などを歴任。敗戦後、陸軍解体直前の1945年11月30日に退役した[4]。 第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)、伊勢神宮祭主に就任した。1945年(昭和20年)には皇典講究所第6代(最後)総裁に就任した。 敗戦後、神宮祭主であったことから国家神道の主体的な頭目であったとみなされ、1945年12月2日に連合国軍最高司令官総司令部から日本政府に逮捕命令が出された(第三次逮捕者59名中の1人)[5]。
生涯
生い立ち
結婚
軍歴
伊勢神宮祭主
A級戦犯容疑
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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