梨元勝
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なしもと まさる
梨元 勝
生誕 (1944-12-01)
1944年12月1日
日本 東京都中野区
死没 (2010-08-21) 2010年8月21日(65歳没)
日本 東京都渋谷区(東海大学医学部付属東京病院)[1]
出身校法政大学社会学部
職業芸能リポータータレント
活動期間1967年?2010年
配偶者福田 玲子
子供梨元麻里奈
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梨元 勝(なしもと まさる、1944年昭和19年〉12月1日 - 2010年平成22年〉8月21日)は、日本芸能リポータータレント

株式会社オフィス梨元(東京都渋谷区代々木上原)代表取締役社長、函館大学商学部客員教授などを歴任した。
人物

東京都中野区で生まれる。5歳から埼玉県与野市(現:さいたま市中央区)に育つ[2]埼玉県立浦和西高等学校(1年留年する)を経て、法政大学社会学部社会学科卒業。

出版社・講談社の契約社員として女性誌『ヤングレディ』の記者を務めた後、芸能リポーターに転身した。

大学時代は、大学院進学を考えていた。そのことを大学の先輩と飲酒した際に話すと、「お前は大学入学のお金だけじゃなくて、この上おじいちゃん(当時梨元は祖父と2人暮らしをしていた)のスネをかじり、面倒かけようと言うのか!」と彼に言われ、「そんなことを言うのなら、就職の一つでも紹介するのが先輩というものでしょう!」と切り返したところ、1週間後に彼が『ヤングレディ』記者の仕事を持ってきたというのが就職の経緯である。このような縁で始めた仕事だったが、梨元は芸能リポーターは天職だと話す(先輩にも感謝していると話した)[3]

その後、長年に渡り精力的な活動を見せたが、2010年平成22年)8月21日午前5時19分、肺癌のため東京都渋谷区東海大学医学部付属東京病院で死去、65歳没[1][4]

没後の葬儀・告別式は近親者のみの密葬でおこなわれ、長女の麻里奈は「父の遺志とは反するかも」としながらも「なかなか家族で一緒に過ごすことができなかったため、最後くらいは親族だけで送りたいという私たち家族のわがままです」とその理由を説明した[5]
芸能リポーター

テレビ朝日でリポーター業をスタート。一時日本テレビに移ったが、再びテレビ朝日に戻り、同局のワイドショーには欠くことのできない存在となった。2005年(平成17年)にはTBSの芸能レポーターとして活動。1990年代以降は、契約するテレビ局にかかわらず、芸能評論家として民放テレビ・ラジオ各局に幅広く出演した。代表的な芸能リポーターとのイメージから、稀に芸能リポーターの役で俳優として出演することもあった。

先述の通り、成り行きで記者となったが、最初はスクープを物にする方法が分からず、他の記者に抜かれてばかりだった。この状態に佐藤蛾次郎より「なんにもナシモト」とのあだ名を付けられた[3]

テレビ局の多くが梨元の番組での発言に期待していたものの、梨元はテレビ局として扱いたくない内容についても番組内で発言してしまうことがあった。テレビ局側は梨元に扱ってはいけない内容について相談することがあったが、内容と相談によっては梨元から番組出演を断ることがあったという。また、降板した静岡朝日テレビとびっきり!しずおか』には、当初は翌週2006年(平成18年)6月16日の放送も出演する予定だった。しかし放送前日の6月15日、同局の担当者から「ジャニーズ事務所に関する話題を取り上げるな」と求められたことに激怒して即時降板を決意。16日からの出演を自ら打ち切った。梨元はこれについて、「視聴者が最も興味あることを局の自主規制で止めようとすることに納得できないので降板を決意した」と述べていた(「ブログで恐縮です!―降板について」)。これ以前にも『やじうまワイド』、『スーパーモーニング』に出演していた当時SMAP稲垣吾郎が逮捕されるという事件が起きた際、ジャニーズ事務所との関係を考慮して事件の報道を控えたい番組上層部と特別扱いをすべきでないと主張した梨元が対立し、番組への出演を一時ボイコットしている[6]

2007年(平成19年)新春に出演した朝日ニュースター『TVウワサの真相』では、自主規制により芸能報道についても発表モノばかり取り扱い、数社の芸能事務所をタブー視する地上波各局を激しく批判した。

芸能人でない人物も取材対象としており、イギリスダイアナ妃や、元ソ連大統領ミハイル・ゴルバチョフらへも直撃している[7]

略歴

1967年法政大学社会学部社会学科卒業。教授・芝田進午のゼミにて学ぶ。その後は講談社の契約社員になり、『ヤングレディ』の取材記者を務めた。当時の同僚には小中陽太郎立花隆鎌田慧らがいた。

1975年1月27日 - 福田玲子と結婚。

1976年3月 - 『ヤングレディ』の取材記者を辞めて芸能リポーターに転身。テレビ朝日アフタヌーンショー』を始め、数多くのテレビ番組で活躍。

1980年1月31日 - 娘・麻里奈誕生。

1980年7月 - 株式会社オフィス梨元を設立。代表者は妻。

1988年4月 - 『やじうまワイド』『スーパーモーニング』(テレビ朝日)のリポーター・コメンテーターを担当。

2000年4月 - 芸能リポーターとしては初めての客員教授として、北海道の函館大学商学部に就任。

2005年1月 - メ?テレ製作の『どですか!』にレギュラーとして出演。名古屋限定のトークが人気を呼ぶ。

2006年8月 - 「恐縮です!梨元勝のマスコミ面接」(ホットエンターテイメント)でAV監督デビュー。

2006年9月29日 - 『きょう発プラス!』終了。

2010年6月 - 肺癌を患っていることを公表。

2010年8月4日 - ニュース探究ラジオ DigTBSラジオ)に事前収録で電話出演、闘病生活を語る[8]。これが生涯最後のメディアへの出演となった。

2010年8月21日 - 東京都渋谷区の病院で死去(65歳没)。法名は「泰篤院釋勝陽(たいとくいんしゃくしょうよう)」。

2010年9月22日 - 東京都内のホテルでお別れの会を執り行った[9]

人物像

小学校の後輩に
萩原健一がおり、梨元の死後のお別れの会で萩原が弔辞を読んだ[10]

前述の通り肺癌で亡くなったが、生涯煙草は吸わなかった。

マイクを向ける際の「恐縮です!」が決め台詞で、自身のブログのタイトルにも使用していた。元日刊スポーツ記者の小林秀夫によると、梨元がリポーターに転身して2年たったころに、小林が梨元と行った焼肉店で飲み物サービスを受けた際「恐縮でーす」と礼を述べたところ、取材を切り出す台詞に悩んでいた梨元が「小林さん、それいいねー」と応じたことが使い始めたきっかけであるという[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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