梅田晴夫
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1955年
誕生梅田 晃
1920年8月12日
東京府東京市
死没 (1980-12-21) 1980年12月21日(60歳没)
日本 東京都新宿区信濃町
墓地 日本 東京都港区元麻布竜沢寺
職業小説家
劇作家
随筆家
翻訳家
言語日本語
国籍 日本
教育修士フランス文学
最終学歴慶応義塾大学大学院仏文学研究科
活動期間1948年 - 1980年
ジャンル小説
戯曲
随筆
文学活動ブールヴァール演劇
文化史
雑学
代表作『五月の花』(1950年)
『結婚の前夜』(1950年)
『未知なるもの』(1950年)
チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(1951?52年)
『紳士のライセンス』(1969年)
『ひまつぶしの本』(1974年)
『博物蒐集館 全5巻』(1979年)
『嫁さんをもらったら読む本』(1980年)
主な受賞歴第2回 水上瀧太郎賞(1950年)
デビュー作『五月の花』(1950年)
配偶者万里陽子(6番目の妻)
婚姻歴6回(うち3回は未入籍)
子供梅田望夫
梅田みか
親族梅田潔(父)
梅田きよ(母)
兄弟は晴夫を含めて6人
影響を受けたもの

ブリタニカ百科事典第11版
ウジェーヌ・ラビッシュ
アンドレ・ジッド
アベ・プレヴォー
ラ・フォンテーヌ
林達夫
川端康成
内村直也

影響を与えたもの

山川方夫
西尾忠久
劇団NLT
プラチナ萬年筆

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梅田 晴夫(うめだ はるお、1920年8月12日 - 1980年12月21日)は、日本フランス文学者劇作家小説家随筆家。本名は梅田晃(あきら)。慶應義塾大学大学院修了。舞台劇やラジオドラマの脚本、物の歴史に関する著述や翻訳などで活躍した。パイプや万年筆などの収集家としても知られる。梅田望夫梅田みかは子。
経歴
出生

1920年(大正9年)、東京府東京市四谷区(現東京都新宿区愛住町暗闇坂で、ロシア貿易会社を営んでいた父・梅田潔と文学者の母・玲子の間に、6人兄弟の末子として生まれる。当時の梅田家の家風であった、ヨーロッパ的な生活習慣[1]の中で育ち、1926年(大正15年)、慶應義塾幼稚舎入舎。以後18年間大学院まで慶應の一貫教育[2]を受ける。外国製の家具調度品に囲まれて育った梅田は幼少時から物に対する愛着が深く、5歳ごろから「鉛の兵隊」などの玩具収集に熱中していたが、1930年昭和5年)の春、家庭教師として梅田の世話をしていた10歳年長の従姉からデ・ラ・ルー社製の万年筆[3]を譲り受けてから、万年筆をはじめとする物の収集に熱中するようになった[4]。知的好奇心も旺盛で、母が丸善から購入した、チッペンデール風の専用書架つきのブリタニカ百科事典第11版は梅田の青年期からの愛読書[5]となる。1931年(昭和6年)に@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}実家が没落[要出典]、梅田は母と共に借家に転居する。1937年(昭和12年)、丸善で全10巻からなる洋書のウジェーヌ・ラビッシュ(英語版)の戯曲集を購入。フランス喜劇の戯曲に興味を抱きはじめる[6]
二宮時代

1941年(昭和16年)に、戦争のため、母の実家の別荘がある神奈川県中郡二宮町[7]に疎開。大学在学中からフランス文学[8]に傾倒していた梅田は、1943年(昭和18年)「三田文学」に、当時の編集者和木清三郎から書評を書くことを薦められ、卒業論文に当時深い関心を寄せていたフランスのポピュリスト、ラビッシュについて「ラビッシュとその作品」と題する評論[9]を書く。しかし、内容が共産主義的であるとして、当時の内務省から注意を受け、一時「三田文学」が廃刊の危機にさらされてしまう。梅田は急遽、モリエールについての論文を提出し、あやうく処分を免がれる[6]。また、この年梅田は最初の結婚[10]をした。

1944年(昭和19年)、慶應義塾大学大学院仏文学研究科を修了。終戦後しばらくして最初の妻と離婚し二宮在住の女性、石井喜美と再婚。1946年(昭和21年)に中央公論出版部にしばらく勤めたのち、12月から1年あまり、同県内の茶屋町で貸本屋を営む[11]。1948年には慶應文化学院の講師に就任するが、フランス文学の教職活動と並行して、小説の執筆や、ラビッシュなどのフランス戯曲の翻訳活動を始める。1948年10月『群像』に妻の喜美をモデルにした長篇小説『五月の花』の連載を始める。
劇作家から博報堂へ『風のない夜』が上演された、アマチュア演劇祭のプログラム(1956年12月10日)[12]

1949年春、劇作家としての処女作となる舞台劇脚本『風のない夜』を発表。6月には結婚前の娘の心情を描いたラジオドラマ脚本『結婚の前夜』がNHKラジオで取り上げられ、梅田は放送作家としてデビューする。翌年には、『五月の花』が佐藤春夫の推薦を受け、第2回水上瀧太郎賞を受賞。その後、内村直也の門下に入り、劇作家として本格的に執筆活動を開始する。

1951年(昭和26年)、演劇人育成のために、内村と「芸術協会」[13]を設立し、後進の指導にあたる一方、新進脚本家として旺盛な執筆活動を行なった。なかでも舞台劇の『未知なるもの』、ラジオドラマの『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』や『母の肖像』などは聴取者や評論家たちから高い評価を受け、一時は東宝の専属脚本家として川端康成の『伊豆の踊子』の映画脚本[14]を書くなど、昭和30年代にかけて数千本にのぼる脚本を執筆[15]したという。1953年(昭和28年)10月13日、梅田の父、潔が狭心症のため81歳で死去。梅田は当時放送中だったラジオドラマ『みゆき』を小説に書き直し、亡き父に捧げた。

1955年(昭和30年)結核のため妻の喜美が死去。梅田家は東京都渋谷区[16]に転居。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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