うめづ しえん梅津 只圓
生誕政之進
文化14年4月17日(1817年6月1日)
筑前国那珂郡福岡城下薬院中庄
死没明治43年(1910年)7月3日
福岡県福岡市薬院
死因老衰
墓地順正寺(祇園町)
記念碑梅津只圓翁像(大濠公園能楽堂)、梅津只圓先生之碑(今泉二丁目)
住居薬院
国籍 日本
別名通称:源蔵、諱:利春
職業能楽師
活動期間嘉永5年(1852年) - 明治43年(1910年)
流派喜多流シテ方
影響を受けたもの喜多六平太 (12世)
梅津 只圓(うめづ しえん、文化14年4月17日(1817年6月1日) - 明治43年(1910年)7月3日)は幕末明治の喜多流シテ方能楽師。福岡市出身。通称は源蔵、諱は利春。夢野久作『梅津只圓翁伝』の題材となった。 文化14年(1817年)4月17日、福岡藩召抱能楽師シテ方、梅津源蔵正武の長男として薬院中庄に生まれた[1]。幼名は政之進、栄で、藩主黒田長溥の命で利春と改名した[1]。 天保3年(1832年)春、喜多六平太[要曖昧さ回避]と師弟関係を結び、「翁」の允可を受けた[1]。弘化元年(1844年)春と嘉永元年(1848年)春の2度上京し、喜多六平太能静
目次
1 生涯
1.1 江戸時代
1.2 明治時代
2 記念碑
3 家族
4 脚注
生涯
江戸時代
嘉永5年(1852年)3月自宅舞台で「翁」を初披露し、藩主黒田斉溥に御装束預を命じられた[1]。嘉永7年(1854年)3月、菅公を祀る水鏡天満宮250年に能を披露した[2]。文久元年(1861年)9月28日から1月1日まで5日間、黒田長知栄進祝として能を披露し、10月15日御納戸組馬廻格となった[1]。文久3年(1863年)1月1日松囃子の際、長知より袴や面を賜った[2]。 明治元年(1868年)長知の上京に同行し、京都の黒田家菩提寺、大徳寺龍光院の宿陣で来客に囃子、仕舞を披露した[2]。明治2年(1869年)4月4日環瀛丸に同船して13日東京に到着し、隔日で勤番した[2]。非番の日は根岸の喜多家宅に通い、「道成寺」「卒塔婆小町」「望月
明治時代
明治13年(1880年)3月30日、当主・黒田長知の機嫌伺いのため、門人・鈴木六郎、河原田平助と共に上京し、度々長知の実兄、藤堂高潔宅で能を披露した[1]。明治25年(1892年)10月9日能静追善能のため上京したところ[2]、池田茂政、前田利鬯、皇太后宮亮の林直康等に、喜多家次代千代造の補導を依頼され、婿野中到宅に滞在して稽古を行い、また斎藤五郎蔵に装束附方を伝習し[1]、明治26年(1893年)11月28日帰郷した[2]。
明治38年(1905年)義兄の次男健介を養子とし、10月家督を讓った[1]。明治41年(1908年)頃身体が不自由となり、梅津朔造に「隅田川」を稽古中卒倒し、病臥の身となった[1]。明治43年(1910年)7月2日柴藤精蔵に謡曲を稽古中急変し、7月3日死去した[1]。墓所は福岡市博多区祇園町、順正寺[1]。 昭和8年(1933年)墓が累代墓に合葬されたため、旧門下佐藤文次郎、古賀得四郎、柴藤精蔵、夢野久作により銅像建造が計画され、昭和9年(1934年)10月14日旧宅庭前に津上昌平による像が除幕された[1]。第二次世界大戦中金属類回収令により供出され、昭和63年(1988年)大濠公園能楽堂中庭に再建された。 現在、今泉二丁目大神月極駐車場内に「梅津只圓先生之碑」がある。 梅津家は山城国葛野郡梅津で代々芸事を行い、梅若家も輩出した家柄といい、江戸時代博多に移住して町役者となり、櫛田神社の神事能を司った[1]。その一分家が薬院中庄に移り、黒田氏御抱として士分に列せられた[1]。
記念碑
家族
父:梅津源蔵正武、後に一朗[1]
母:判(半) - 阿多田の旧家一木家娘。身分が異なるため、向い隣の無足組児玉藤五郎の養女として入嫁した[3]。
姉:せき - 弘化4年(1847年)6月1日生。明治5年(1872年)佐々木啓次郎に嫁ぐ[1]。
弟:梅津九郎助 - 荒巻軍平養子となり、伊右衛門と称し、軍治、行度と改む。明治9年(1876年)3月20日没[1]
先妻 - 大老黒田家臣梅津羽左衛門娘。弘化3年(1846年)縁組、元治元年(1864年)11月没[1]。
嫡子:梅津栄重利 - 嘉永3年(1850年)2月16日生、明治12年(1879年)1月18日没。号は無涯[1]。
娘:まさ - 嘉永5年(1852年)11月6日生。明治2年(1869年)牟田口重蔵に嫁ぐ。明治25年(1892年)8月10日没[1]。
後妻:いと - 野中勝良姉。明治3年(1870年)縁組[1]。
娘:千代 - 明治4年(1871年)9月30日生。明治24年(1891年)野中到に嫁ぐ[1]。
養子:梅津利彦 - 牟田口重蔵三男。明治15年(1882年)10月25日生。明治24年(1891年)6月養子、明治30年(1897年)4月改名。明治37年(1904年)12月事故にて死去[1]。