桶川宿
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出典検索?: "桶川宿" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2017年6月)
『岐阻街道 桶川宿 曠原之景』[1]
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉
簡素な家の庭先で麦の穂をこぐ農婦に、旅人が氷川天満神社(加納天神)への道を尋ねている。桶川宿の北に広がる湿潤な昿原(こうげん)に暮らす庶民を描いた一図である。

桶川宿(おけがわじゅく[2]、おけがわしゅく[3])は、日本近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸日本橋から数えて6番目の宿場(武蔵国のうち、第6の宿[4])。

所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡桶川郷桶川宿[5]。現在の埼玉県桶川市にあたる。

そこそこの荷物を抱えて江戸・日本橋を出立した旅人がおよそ1日歩き通して日暮れどきを迎え、宿を求めるのがここ桶川あたりであったとされる。
特徴
地名の由来

「桶川」の地名の由来については諸説ある。最も有力なのは「沖側(オキガワ)」説で、「オキ」を「広々とした田畑」の意とし、その「方向(ガワ)」である「沖側(オキ-ガワ)」が転訛[6]したとするもの。他にも、湿地が多い土地柄で、東に芝川、南に鴨川の水源があることから、「川が起こる」意で「起き川(オキガワ)」とする説などがある。この地名「オケガワ」が初めて文献に現れるのは観応3年(1352年)、足利尊氏が家臣にあてた下文(くだし-ぶみ)であり、そこには「武藏国足立郡桶皮郷内菅谷村(むさし-の-くに あだち-ごおり おけがわ-の-ごう-ない すがや-むら)」とある[7]
江戸から10里、大名の定宿

日本橋から距離にして10里14町(約40.8 km)と、ちょうどそれは江戸を出立した旅人が1日で歩く道程(詳しくは「#中山道の行程」を参照)とおおよそ等しく、江戸方に一つ手前の上尾宿(9里16町、約37.1 km)とともに、宿場町として絶好の位置にあったと言える。また、この距離はフルマラソンともほぼ同じである。

桶川宿は寛永12年(1635年)に設置された。当初わずか58軒に過ぎなかった宿内家数は、「中山道もの」といわれた紅花等の染料や食用農作物の集散地(詳しくは後述)となっていた天保14年(1843年)頃には347軒に達し、経済的にも文化的にも繁栄を見せている。

他の宿場と比較する意味でも重要なのは天保14年の記録[8] であるが、それによると当時の桶川宿の規模は、宿内人口1,444人、町並み9町半(約1.0 km)、宿内家数347軒であった。本陣は1軒、脇本陣は2軒。府川家が世襲した敷地面積1,000余、建坪200坪に及ぶ本陣は、当時の建物の一部が個人宅として現存している。旅籠は36軒あり、当時の建物を残して今日ある「武村旅館」はその中の一軒であった(「#名所・旧跡・文化財・観光施設」に詳細と写真あり)。[note 1]

加賀前田家を始めとする参勤交代の大名の多くが、桶川宿の府川本陣を定宿としていた。水戸藩第9代藩主・徳川斉昭が足跡を残していることも知られている。また、文久元年11月13日(西暦1861年1月2日)には、皇女・和宮(親子内親王)が公武合体政策の一環で徳川将軍・家茂御台所として降嫁すべく江戸へ下向の際、宿泊している。
農作物集散地、紅花立花町(現在の南町)の中山道の町並み(1907年頃)

桶川宿は近隣の村々で生産された農作物の集散地でもあった。大麦甘藷(かんしょ。さつまいも)など食用農作物のほか、「武州藍(ぶしゅう-あい)」と呼ばれた染料の、「桶川臙脂(おけがわ-えんじ)」と呼ばれた紅花なども取引された。

なかでも紅花は桶川宿を中心とした桶川郷一帯で盛んに栽培され、最上紅花に次いで全国第2位の生産量を誇っていた。桶川郷での紅花の栽培は、桶川郷内の上村(桶川上村〈現・上尾市地区〉)の農家の七五郎が、江戸の小間物問屋「柳屋」から紅花の種を譲り受けて栽培したのが始まりであると、江戸の勘定奉行の記録に記されている。

出羽国最上郡こと村山地方に比べて気候温暖な桶川周辺の紅花は早く収穫できたため、紅花商人たちからは「早場もの」として喜ばれた。

当時の隆盛は稲荷神社の石灯籠や在地問屋の須田家の古文書、紅花仕入れ帳などの記録に残されている。宿場開設当初の寛永15年(1638年)に58軒であった宿内家数は、天保14年(1843年)には347軒、人口も1,444人に達し、その発展ぶりが伺える。

当時の取引価格は、田1あたりの米収穫量およそ2に対し、紅花は倍の4両で取引され、幕末には最上紅花を上回る相場で取引されていて、桶川は紅花がもたらす富によって大いに潤った。遠方の商人も集まるようになると、富とともに文化ももたらされた。今も残る桶川祇園祭山車の引き回しは京の都から、祭囃子は江戸から採り入れ、桶川で独自に発展した行事である。しかし、明治維新後は化学的合成染料の導入などから衰退し、消滅した。

現在の自治体である桶川市では平成6年(1994年)以来、発展をもたらした紅花を蘇らせ、街づくりのシンボルとする「べに花の郷づくり事業」を展開している[9]

なお、鉄道と駅(桶川駅)は、明治18年(1885年)3月1日の日本鉄道品川 - 赤羽支線開業に始まる。
女郎買い地蔵

戦国の世ただなかの弘治3年(1557年)の開基と伝える曹洞宗大雲寺は、宿場町の西の外れに位置している。その境内には、「女郎買い地蔵」と呼ばれる1体の地蔵菩薩が鎮座する。

賑わいのある宿場なら多くがそうであるが、ここ桶川の宿にも飯盛女(めしもりおんな)が大勢いて、女色に溺れる男たちを飯盛旅籠に引き入れていた。そのような町で、土地のお地蔵さまが女を買いに出掛けているらしいとの噂が立った。それを耳にした寺の住職は困り果てたが一計を案じ、件(くだん)の地蔵の背に(かすがい)を打ち付け、鎖で縛って動けなくしてしまったとのことである。さても不思議な話ではあるが、実のところは、一人の飯盛女に熱を上げ、通い詰めた若い僧にまつわる小さな事件の顛末(てんまつ)であったらしい。坊主頭を布で隠して人目を忍ぶ様子のこの若者を怪しんでいたある人が、その後をつけてみたところ、最後に大雲寺の中へ帰っていったというのである。このことを知らされた住職は、必ず見つけ出して仕置きすると約束をした。すると、次の日になって、鎹と鎖で動きを封じられたお地蔵さまが立っていたのである。住職は煩悩多き若い僧に、その罪を地蔵菩薩に被っていただくゆえ、以後は心を入れ替えて精進するよう諭し、一件を落着させたのに違いない。地蔵の背には、今も鎹が残っている。
名所・旧跡・文化財・観光施設興川学校(明治期)


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