桜隊
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桜隊のメンバー(1945年1月、富士フイルム足利工場公演での記念撮影にて) / 前列左より島木つや子、園井恵子永田靖、一人おいて丸山定夫。中列左より仲みどり八田元夫多々良純池田生二利根春江、江守純子。後列左より高山象三、一人おいて鉄一郎、遠山義雄、水谷三重三、土方浩平(太字は被爆死した人物)。

桜隊(さくらたい)は、かつて存在した日本の劇団原爆の被害を受けた唯一の職業劇団[1]とされる。

本項では桜隊の前身である苦楽座についても述べる。
概要.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}}生前の丸山定夫生前の園井恵子

前身は、薄田研二徳川夢声丸山定夫藤原釜足により結成された苦楽座。旗揚げ公演以降、各地での巡回公演に取り組む。苦楽座解散後、桜隊として、日本移動演劇連盟に組み込まれ、地方への慰問巡演活動をはじめる。劇団の地方疎開に際して、広島に15人が疎開。中国地方の慰問公演を受け持つ。原爆投下により、広島市内の宿舎兼事務所にいた丸山定夫ら9人は8月下旬までに全員が死亡した。応召、出産など様々な理由で広島への疎開に不参加または広島を離れていたメンバー多々良純佐野浅夫千石規子利根はる恵永田靖池田生二槙村浩吉らが難を逃れた。


2012年12月27日に千石が老衰で死去[2]2022年6月28日には佐野浅夫が老衰で死去[3]。佐野の死去をもって旧『苦楽座』から続く『櫻隊』のメンバー全員がこの世を去った[要出典]。
沿革
苦楽座時代

1942年、苦楽座結成。文学座の『富島松五郎伝』(国民新劇場5月6日から5月21日まで、原作:岩下俊作、脚色:森本薫、演出:里見ク[4]丸山定夫が無法松役で客演。文学座研究生だった丹阿弥谷津子も出演[5]

1942年12月3日園井恵子も参加して「玄関風呂」(尾崎一雄作)、「見知らぬ人」(真船豊作)[6]などの演目で旗揚げ公演。原泉[7]望月優子もこの公演に客演していた[8]。地方への慰問巡演活動をはじめる。

1943年園井恵子が映画『無法松の一生[9]に出演。10月28日公開。

1944年、苦楽座として、『無法松の一生』を園井恵子とともに各地で巡演。無法松を丸山定夫、吉岡良子を園井恵子、吉岡小太郎を高山象三が演じた。12月24日、苦楽座解散。

櫻隊に再編

1945年1月、日本移動演劇連盟に組み込まれた苦楽座移動隊として再出発。2月から3月にかけて広島公演。6月、広島への疎開に際して、櫻隊と改称。15人が広島に疎開し、中国地方を中心に、「獅子」(三好十郎作)、「太平洋の防波堤」(八木隆一郎作)[10]の演目で公演活動、その合間に稽古や防空壕掘り、建物疎開作業などの作業を続ける[11]7月6日島根県美濃郡益田町(現・益田市)での公演を皮切りに、島根・鳥取両県の8カ所でつごう10回の公演を済ませ、7月16日に広島に帰還。

被爆

1945年8月6日広島市原爆投下。市内中心部に位置する堀川町99番地の宿舎兼事務所は全壊・焼失した。当時この宿舎にいた9人のうち、丸山・園井・高山・仲みどりの4名は辛くも脱出・避難したが、俳優の森下彰子・羽原京子・島木つや子、裏方の笠絅子・小室喜代の5人は即死あるいは焼死したとみられている[12]

1945年8月16日、丸山は避難先である厳島の存光寺で死去。園井と舞台監督の高山は、神戸市にある園井の知り合いの家に避難したが、高山が8月20日、園井は8月21日に死亡。仲は、東京の実家に避難したが、体調が悪化し8月16日東京帝国大学付属病院に入院、都築正男教授による手厚い治療を受けるも8月24日に死亡した。これにより広島に残留していた桜隊の隊員・スタッフは全滅した。

1952年徳川夢声が東京・目黒の五百羅漢寺に石碑を建立。


桜隊が被爆した場所を2015年現在の地図に示したもの。赤○が被爆場所、?が爆心地、上の川が京橋川、その上が比治山。赤○の下側の道(並木通り)とその右側を縦断する大通り(平和大通り)との交差点付近に移動演劇さくら隊殉難碑が建立された。

爆心地方向から東方向を望む。写真中央付近を横断する道が現在の並木通りで、そこに唯一立つ建物から一つ右側を縦断する道の突き当り向こう側の地が、宿舎があった場所。その向こうの大きな川が仲が救助された京橋川で、その向こうに園井と高山が避難した比治山がある。

被爆死を免れた人々

苦楽座のメンバーでも、桜隊に参加しなかった者もおり、同じ桜隊所属でも、様々な事情から被爆を免れた者がいる。利根はる恵は病気のために疎開せず東京に居残り、最年少の佐野浅夫は1945年3月に本土決戦特攻隊員として出征。多々良純は、同年6月に応召され、八田元夫はたまたま連絡のため帰京。池田生二は空襲にあった妻の沼津の実家を見舞いに行き、槙村浩吉は俳優を探すため上京。後に黒澤作品に多数出演した千石規子は、出産で広島を離れていたため、それぞれ難を逃れた。

苦楽座の結成メンバーである薄田研二徳川夢声藤原釜足も東京で映画の撮影などをしていて、難を逃れている。また、東宝専属俳優の久松保夫は、丸山から桜隊への参加を誘われるものの、東宝の許可が出なかったため断念[13]川上夏代も、桜隊の島木つや子が広島への疎開に同行する際につや子の母親からも桜隊への参加を強く勧められたが、俳優座に入るために固辞した[14]

桜隊の広島疎開には珊瑚座という移動劇団が同行し、広島市内の同じ宿舎を拠点にしたが、厳島出身の隊所属の女優のツテで、7月末に厳島の寺に移動し、結果として原爆の被害を免れた[15]


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