桜花_(航空機)
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桜花11型性能諸元表靖国神社境内遊就館に展示されている「桜花」の複製機体
型式番号MXY-7
全長6.066m
全幅5.12m
全高1.16m
自重440kg
全重量2270kg
速度804km/h(急降下突撃状態の速度)
983km/h(急降下時の最高速度)[1]
648km/h(水平時最大速度)[1]
航続距離37km(投下高度によって変化)
(⇒高度7千で投下して約60km)
主武装1200kg徹甲爆弾
副武装無
エンジン固体ロケットエンジン
出力推力800kg×3
ただし毎本の稼働時間は9秒
乗員1名(脱出装置なし)

桜花(おうか、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:櫻花󠄁[2])は、日本海軍太平洋戦争中に開発した特殊滑空機。特攻兵器として開発され、実戦に投入された。
特徴スミソニアン博物館ウドバー・ヘイジー・センターに展示される桜花二二型

「桜花」は機首部に大型の徹甲爆弾を搭載した小型の航空特攻兵器で、母機に吊るされて目標付近で分離し発射される。その後は搭乗員が誘導して目標に体当たりさせる。一一型では母機からの切り離し後に固体燃料ロケットを作動させて加速、ロケットの停止後は加速の勢いで滑空して敵の防空網を突破、敵艦に体当たりを行うよう設計されていたが、航続距離が短く母機を目標に接近させなくてはならないため犠牲が大きく、二二型以降ではモータージェットでの巡航に設計が変更されている。日本海軍では本土決戦への有力な兵器と見なし、陸上基地からカタパルトで発進させることができる四三乙型などの大量配備を図ろうとしていた。

秘匿のため航空機に自然名を付けるという発想から航空本部伊東裕満中佐によって「桜花」と命名された[3]。初戦果を報じた1945年5月28日の新聞では、ロケット機「神雷」と呼称された[4]。開発段階では発案者の名前を取り大⃝(マルダイ)部品」(○の中に「大」の文字)とも呼ばれた。連合国側からは、自殺(攻撃)を行う「愚か者」の機体との意味合いで、日本語の「馬鹿」にちなんだBaka Bomb(単にBakaとも)というコードネームで呼ばれていた[5]

終戦までに11型が製造され755機生産された[6]。桜花で55名が特攻して戦死した[7]。専門に開発され実用化された航空特攻兵器としては世界唯一の存在と言われる[8][注釈 1]

桜花を搭載した一式陸上攻撃機(一式陸攻)は桜花の重量により速度が低速となり運動性も大きく損なわれる為、第1回目の桜花攻撃では、アメリカ艦隊の遥か手前で、アメリカ軍戦闘機に母機の一式陸攻が全滅させられ、桜花を射出することもできなかった[10]。その後、沖縄にて桜花を鹵獲し徹底して調査したアメリカ軍は、桜花が射出されるとその高速の為に迎撃が困難であると分析し大きな脅威と認識した為、射出前の母機となる航空機を最優先攻撃目標として攻撃するように全軍に徹底した[11]。その為、母機の一式陸攻の多くが撃墜され未帰還率が高くなった[12]。アメリカ軍の警戒が厳重な中で、桜花は射程が限られており、母機が十分な護衛機無しで投下地点となる目標の近距離まで到達する必要がある為に、多数のアメリカの迎撃戦闘機を鈍重な爆撃機で突破しなければならない状況では、桜花を使用した攻撃が成功する確率は低かった。その為、桜花母機が最初に接触する敵機動部隊の外周に配置されたピケットラインの駆逐艦に対し攻撃するケースが多くなり、戦果は駆逐艦に集中する事となった[13]
歴史
開発まで

桜花の着想は、航空偵察員大田正一海軍特務少尉が、日本陸軍が母機(爆撃機)から投下する遠隔操作・無線誘導・ロケット推進の対艦ミサイル(対艦誘導弾)である(イ号一型甲無線誘導弾イ号一型乙無線誘導弾)を開発中との情報を得て、イ号一型甲製作担当の三菱名古屋発動機製作所から設計の概要を聞きだし、誘導装置の精度が悪く実用化にはほど遠いと知り、誘導装置を人間におきかえるのが一発必中を実現する早道だと確信して、大田が東大に足を運んだところから軌道に乗る[14]。しかしながら、三菱開発のイ号一型甲はジャイロ安定装置と遠隔操作用無線機器の不具合により計画破棄されたものの、並行して開発が進められていた川崎開発のイ号一型乙は結果的に実用化の域に達しており、空襲の影響から実戦投入は出来なかったものの終戦までに150機が量産されていた。またさらに陸軍では対艦誘導爆弾として、赤外線自動追尾式のケ号自動吸着弾(ケ号爆弾)や、音響自動追尾式のイ号一型丙自動追尾誘導弾も並行して開発を行っている。当然ながら、陸軍が組織的に開発していたこれら四種の対艦兵器は機械を誘導装置とする先進的な無人誘導兵器であり、人間を誘導装置とする海軍の有人対艦兵器たる桜花とは全く異なる物である。

この大田の相談に乗ったのが東大航空研究所の小川太一郎教授だった[注釈 2]。実験に協力した谷一郎東大教授によれば「昭和十九年夏、東大航研で小川教授から新しい依頼があった。小川さんは広い見識と温かい包容によって声望が高く、外部から持ち込まれる相談の窓口の役割を余儀なくされていた。その僅か前に、大田正一海軍少尉が火薬ロケット推進の特攻機の着想を持参し、海軍上層部を動かすための基礎資料の作成を依頼していたのである。私に求められたのは、木村秀政助教授の描いた三面図を基に、風洞実験の助けを借りて、空気力学的特性を推定することであった。仕事自体はさほど困難ではないが、特攻機が母機を離れた後は、生還の可能性の全くないことを知って私はたじろいだ。」という[15]


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