この記事には暴力的または猟奇的な記述・表現が含まれています。免責事項もお読みください。
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この項目では、歴史的事件としての桜田門外の変について説明しています。この事件を題材とした吉村昭の小説、および2010年の日本映画については「桜田門外ノ変」をご覧ください。
「桜田門事件」とは異なります。
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桜田門外の変
「安政五戊午年三月三日於イテ桜田御門外ニ水府脱士之輩会盟シテ雪中ニ大老彦根侯ヲ襲撃之図」大判六枚続[注釈 1] 月岡芳年画 明治初期
場所江戸城桜田門外
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度40分39.6秒 東経139度45分9.6秒 / 北緯35.677667度 東経139.752667度 / 35.677667; 139.752667座標: 北緯35度40分39.6秒 東経139度45分9.6秒 / 北緯35.677667度 東経139.752667度 / 35.677667; 139.752667
標的井伊直弼
日付安政7年3月3日(1860年3月24日)
概要暗殺事件
原因安政の大獄
攻撃手段刀、拳銃
犯人水戸藩浪士、薩摩藩浪士(一覧)
関与者(一覧)
防御者彦根藩藩士(一覧)
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桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年3月3日(1860年3月24日)に江戸城桜田門外(現在の東京都千代田区霞が関)にある豊後杵築藩・松平親良の上屋敷前[1][2](右下の画像4枚目も参照)で水戸藩からの脱藩者17名と薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃、大老井伊直弼を暗殺した事件。「桜田事変」とも言う[3]。
経過外桜田門と彦根藩邸の距離は600m
安政5年(1858年)4月、大老に就任した彦根藩主・井伊直弼は、将軍継嗣問題と日米修好通商条約の締結という二つの課題に直面していた。
まず、病弱で世子が見込めない第13代将軍・徳川家定の後継をめぐって、南紀派(会津藩主・松平容保や高松藩主・松平頼胤ら、溜間詰の大名を中心とした一派)と一橋派(前水戸藩主・徳川斉昭や福井藩主・松平慶永ら、大広間や大廊下の大名を中心とした一派)が争った将軍継嗣問題があった。数年前の嘉永6年(1853年)に起きていた黒船来航など対外危機[注釈 2]を慮った一橋派は、英明で知られた当時21歳の一橋慶喜を推挙していたが[注釈 3]、それに対し南紀派は、家定の従弟で当時12歳の紀州藩主・徳川慶福を推し、結局、慶福が養子と決められた。これは血縁を重視する慣例と現将軍・家定の内意[注釈 4]に沿い、直弼を大老に推した南紀派を満足させたが、「時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい」とした朝廷の意に反するものであった。詳細は「将軍継嗣問題」を参照
もう一つの懸案である修好通商条約の締結については、孝明天皇の勅許が得られず、攘夷派の反対論が勢いを増していた。直弼は基本的には無勅許条約調印に反対であったが、止むを得ない場合調印してよいかとの下田奉行・井上清直の問いに、その際は仕方がないと許可している。そこで、早期締結要求も強まる中、清直らは同年6月19日、勅許を得ないままに日米修好通商条約をはじめとする安政の五ヶ国条約の調印に踏み切った。これは、そもそも「鎖国」は朝廷とは無関係に始められたものであり、慣例上、条約締結に勅許は必ずしも必要ではなかったからである。詳細は「日米修好通商条約」を参照
6月22日、諸大名に条約の締結が公表され、翌23日が御三卿による将軍への公式な面会日だったため一橋慶喜が登城し、条約締結を違勅として直弼を詰問した。さらに、翌24日に徳川斉昭をはじめ、斉昭の長男の水戸藩主・徳川慶篤、一橋派であった尾張藩主・徳川慶勝、福井藩主・松平慶永が、規則外の不時登城を行って無勅許の条約締結を違勅と非難した。直弼は慶永一人を身分が違うから、と別室に移して気勢を削ぎ、他の諸侯の詰問へは平身低頭を繰り返した。翌25日、慶福が将軍・家定の養子と発表された。7月5日、家定の命として、登城した一橋派諸侯へ処分が下される。その直後、6日に家定が没し、慶福は第14代将軍となり家茂を名乗った。
ここに一橋派は江戸城内での活動を制限されたが、一橋派の薩摩藩主・島津斉彬は、かねて藩士・西郷隆盛を京都に遣わして内勅降下運動を行い、藩兵5,000人[6]を率いて抗議のため上洛することを計画した。しかし、7月16日、斉彬は死去した。
勅許を得ない条約調印と斉昭・春嶽の排斥は、攘夷論の強かった公家たちに喧伝され、孝明天皇も幕府の行いに対し憤慨した。天皇は、同年8月、幕政の刷新と大名の結束を説く『戊午の密勅』を水戸藩へ下した。また、幕府寄りとされた関白・九条尚忠の内覧を解いて朝政から遠ざけた[注釈 5]。