桜田門事件
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桜田門外の変」とは異なります。

桜田門事件
事件現場(×の地点に爆弾が投擲された)
場所 日本 東京市麹町区皇居桜田門
標的昭和天皇
日付昭和7年(1932年1月8日
午前11時44分頃[1]
概要犯人は麹町の交差点角で待ち伏せして行幸の列を襲撃したが、手榴弾を投げるべき馬車を間違え、爆発も馬車に軽微な破損を与えるに留まって、暗殺は失敗した。
攻撃側人数1人
武器手榴弾
死亡者なし
負傷者近衛兵1名(軽傷)、馬2頭が怪我
損害宮内大臣の乗った御料馬車を破損
犯人李奉昌
関与者韓人愛国団
対処大逆罪で有罪、死刑が執行された。
管轄警視庁大審院
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桜田門事件(さくらだもんじけん)は、昭和7年(1932年1月8日に起きた昭和天皇暗殺を狙った襲撃事件で、四事件ある大逆事件の一つ(最後)である。犯人は大韓民国臨時政府の抗日武装組織「韓人愛国団」に所属していた李奉昌で、天皇に危害を加えようとしたなどで大逆罪に問われ、死刑となった。李奉昌大逆事件[2][3][4]とも。
経緯観兵式還御の鹵簿に手投弾を投ず : 畏くも天皇陛下御異状あらせられず : 大逆犯人は朝鮮人(大阪朝日新聞 1932年1月9日)

昭和7年1月8日、陸軍始観兵式のため、行幸が行われていた。午前11時44分頃[1]、還幸中に、皇居桜田門の外、麹町区桜田町警視庁庁舎前に通りに差し掛かった還幸の列の馬車に対して、突然、奉拝者の線から沿道に飛び出した男が手榴弾を投げつけた[1]

狙われた馬車は第二両目の御料馬車で、宮内大臣一木喜徳郎が乗車するものであった。手榴弾は左後輪付近に落ちて炸裂し、馬車の底部に親指大の2、3の穴を開けたが、手榴弾は威力が小さく、馬車と隊列はそのまま進んで午前11時51分頃、皇居内に到着した[1]。後に破片で、騎乗随伴していた近衛騎兵1人とその乗馬と馬車馬の馬2頭が負傷していたことがわかった[5]

昭和天皇は第三両目の御料馬車に乗車しており、手榴弾はその32メートル[6]も前方で炸裂。車内にあって音を聞いた程度だった。奈良武次武官長が陪乗していたが、天皇は極めて冷静沈着で、帰還後も事件について何ら言葉をかけることもなかったという[1]

襲撃者は一名で、警視石森勳夫、巡査本田恒義、山下宗平、憲兵河合上等兵、内田軍曹の五名によって即座に逮捕された[1]犯人朝鮮京城生まれの李奉昌という人物で、朝鮮独立を目指す金九が組織した抗日武装組織・韓人愛国団(大韓僑民団)から派遣された刺客であった[7][8]即座に取り押さえられた李奉昌

李は先月28日に昭和天皇が観兵式に臨席することを東京朝日新聞で知り、犯行の前々日(1月6日)にバス運転手菅原久五郎[注釈 1]から偶然入手した憲兵曹長「大場全奎」の名刺を使って観兵式の警戒網を2回突破した[9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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