桜田武
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、実業家の桜田武について説明しています。陸軍中将の桜田武については「桜田武 (陸軍軍人)」をご覧ください。

櫻田 武(さくらだ たけし、1904年明治37年)3月17日 - 1985年昭和60年)4月29日)は、昭和経営者。日清紡績(現・日清紡ホールディングス)元社長。日清紡績"中興の祖[1]日経連会長、名誉会長を務め、"ミスター日経連とも呼ばれた[2][3]。「財界四天王」の一人。広島県福山市赤坂町出身。福山市名誉市民[4]
来歴・人物

1904年、商家の櫻田斉・仲子の長男として沼隈郡赤坂村(現在の福山市赤坂町)に生まれる[3]広島高師附属中学校[5]第六高等学校を経て1926年大正15年)に東京帝国大学法学部を卒業。紙恭輔は広島高師附属中学の一級上[6]。六高柔道部で同郷で、後に「財界四天王」とともに呼ばれる生涯の盟友・永野重雄に誘われ高専柔道界の王座を築く[7]。東京帝国大学卒業後、日清紡績に入社。当時社長であった宮島清次郎の目に留まり要職を歴任。名古屋支店長だった1939年、35歳のとき召集され、砲兵少尉として中国戦線武漢に就く[3]

宜昌作戦中に留守隊に急襲してきた中国軍と応戦し、刀剣による白兵戦となり、刀の使い方などまるで知らず、丸腰で得意の柔道で次から次へと片っ端から中国兵を投げ飛ばして中国軍を退却させた[3]

1942年中尉で除隊し日清紡に復帰。終戦後の1945年に41歳で同社社長に就任し、日清紡績を産業界髄一の企業に育て上げた[8]。終戦後の混乱期にラジカルな労働攻勢に出る労働者側と闘う、経営者側の代表的人物として日経連設立に尽力[9][10]1949年総理事、1960年には代表常任理事、1974年には会長に就任した。日経連の創立から1979年名誉会長に退くまで日経連の実質的リーダーで、象徴的存在であった[11][12][13][14][15]。戦後の日本経済の復興、企業の再建も五里霧中の時代から労使関係の正常化に尽力[16]。戦後、師匠・宮島を通じて吉田茂と関係を持ち、以降、「財界主流派」として政界にも強い影響力を持った[15][17][18][19]池田勇人内閣時には、永野重雄小林中水野成夫とともに「財界四天王」(三鬼陽之助が命名)と呼ばれるようになり、1975年からは土光敏夫らとともに、行財政改革の中心的存在となった[20]。戦後の日本経済の基盤を築いた人物の一人である[10][21]1985年に81歳で死亡するまで、政界、財界に多大なる影響を与え続けた。
財界の代表的闘士として

戦後の1945年、41歳の若さで日清紡の社長に就任後まもなく、1946年4月に発足した経済同友会創設に参加[22]。ここで若手理論家として、おおいに嘱望される。戦時中に仕事の付き合いがあった鹿内信隆と桜田はこの会の主導メンバーで後にコンビを組む。当時から桜田は鹿内に目を付け、後の日本経営者団体連盟(日経連)設立時には日本電子工業の常務であった鹿内を引き抜いた[23][24][25]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:86 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef