桜沢如一
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桜沢如一。1920年(28歳前後)、パリにて。.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

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櫻澤 如一(さくらざわ、ゆきかず[1]、にょいち[2]、若き日はじょいち[3]1893年10月18日 - 1966年4月24日)は、日本思想家マクロビオティック(食養)の提唱者。海外ではジョージ・オーサワ(George/Georges Ohsawa)の名で知られている。マクロビオティックを日本、北米、中南米、欧州、インド、アフリカ、ベトナムに広めた[4]
人物

京都市東山区で生誕した桜沢如一は[5]少年の頃は病弱であり誌歌に触れる10代を過ごしたが、苦学を重ね商業高校、仏語学校を卒業し貿易商となる。苦学の時期より石塚左玄の食養にて健康を回復し、貿易事業と並行して、大和言葉のよみがえり運動の一環でシャルル・ボードレールの『NAYAMI NO HANA』(悪の華)などを翻訳した。カメラや撮影機、映写機、放送機など電子機器を扱った商売からは1924年には手を引き、左玄の食養会の活動に尽力し数十の書籍を出版した。またその成果をフランスのパリで試しに無銭武者旅行に出発し、フランスでも著作活動を開始する。同時並行で日本に帰った時には反戦運動を行い、その目くらましとして健康指導、翻訳活動に身を投じ、岩波文庫からのカレルの『人間』も当時の活動である。1937年には食養会の会長に就任するがその2年後には脱会した。

1940年には滋賀県大津市にその食養の理論を東洋思想の易を交えて独自展開する無双原理講究所を開設。次第に再び反戦活動へと傾倒していき、戦争がはじまると軍部や右翼から暴力を受けるが、1945年に日本が敗戦すると世界政府協会を作って、世界連邦運動に取り組み平和を追求することになる。その思想の根本には食による健康があった。再び、欧州やアフリカなど世界旅行によってマクロビオティックの普及につとめ、各地に団体や食品店が生まれ、1960年には訪米し普及に努める。日本での団体は、真生活協同組合(1945年設立)、メゾン・イノグラムス(真生活運動のセンター、1947年設立)と経て、日本CI協会(1957年設立)となる。如一の没後は、マクロビオティック料理教室の校長を務めていた妻の桜沢里馬が同協会の会長となる[6]。後継者にはアメリカでの普及に尽力した久司道夫、日本では大森英桜岡田周三といった人物がいる。
経歴母の世津子7歳の如一。家族と
貿易商となる

1893年10月18日、京都市東山区祇園建仁寺の付近で生誕する[5]。武士の家系に[3]紀州(今の和歌山あたり)を後にして京の都で一旗揚げようとした夫婦の間に、如一は生まれた[4]。しかし不幸にも、父は如一が6歳の時に家を飛び出し、母の世津子[5]は10歳の時に肺病で亡くなり、天涯孤独となった[4]。1908年、16歳の時には肺結核、腸結核など多くの病に苦しむようになる[5]。17歳で誌歌に触れ、雑誌『砂丘』を作り、他の誌歌の雑誌にも自分の作品を投稿したものである[7]。1912年、20歳で石塚左玄の食養法に出会い健康を回復する[5]。別の書籍によれば、14歳で祖父三四郎、父孫太郎等一家で京都に転居するも貧窮の中で職を転々とする中で病気に苦しみ、20歳の頃、食養家の後藤勝次郎を通して[8]、左玄の食養生に触れる。

本も買えないほど貧乏であったが、苦労を重ねて[4]、1913年には京都府立第一商業学校(現在の京都府立西京高等学校)を卒業した[9]


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