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さくらぎ るい
桜樹 ルイプロフィール
別名海老沢 美紀(本名)
相沢 美紀
一ノ瀬 雅子
生年月日1969年3月8日
現年齢55歳
出身地 日本・熊本県
血液型B型
公称サイズ[いつ?]
身長 / 体重164 cm / ― kg
スリーサイズ86 - 59 - 86 cm
単位系換算
身長 / 体重5′ 6″ / ― lb
スリーサイズ34 - 23 - 34 in
活動
ジャンルアダルトビデオ
出演期間1989年
1990年 - 1991年
1996年
他の活動歌手、女優、ストリッパー
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桜樹 ルイ (さくらぎ るい、1969年3月8日 - )は、日本の元AV女優、女優[1]。本名:海老沢 美紀(えびさわ みき)。1990年代前半を代表するAV女優で、当時AVは千本売れればヒットと言われる中で、出す作品が毎回コンスタントに八千本から一万本を売り上げる人気を誇り、AVクィーンと呼ばれた[2]。AV時代は1970年3月8日生、東京都出身としていた。趣味はファミコン、特技はエレキベース。 熊本県出身、埼玉県富士見市育ち。埼玉県立富士見高等学校卒業。一つ上の姉と四つ下の弟がいる。ロックが好きで高校の頃、友人たちとバンドを組みボーカルとベースギターを担当していた[3]。高校3年の時にモデル事務所に所属し、授業を終えると歌などのレッスンのため埼玉の自宅から東京へ通い続ける日々を送る[3]。『夕やけニャンニャン』(フジテレビ)の公開オーディションにも出演、『青いスタスィオン』を歌い最終選考まで残った[4]。卒業後の1987年、相沢美紀の名前でモモコクラブ桃組に所属したあと、一ノ瀬 (一の瀬) 雅子に改名。グラビアを中心に活動し、NHK大河ドラマ『春日局』にも端役で出演する。 1989年4月に『アダルトさせて』でAVデビュー、2本の作品に出演するが大きな話題にはならなかったものの、タレントからAV女優へ転身した先駆者とされる[5]。 1990年4月、桜樹ルイと改名し、さらにAVを出すことを条件としてCD、『Papillon』(クラウン)で歌手デビューを果たす。これまでAVでは本番はしていなかったが、転機となったのは当時、作品内で確実に本番行為を行ってることで有名だったダイヤモンド映像に移籍してからで、そのハードな内容で一気に人気に火がつき、以後はトップAV女優として出演を重ねていくが、親に知られて勘当状態となる[6][3]。このダイヤモンド映像時代の作品群は人気が高い。またメーカーとしてのダイヤモンド映像を飛躍させたキーパーソンの一人ともいわれる[7]。 同年11月にはパッケージ撮影までしていた『豊田薫の口全ワイセツ 1』だが1991年1月、VTRの撮影前に突如失踪、業界中を騒然とさせた。主演女優不在という異常な状況の元でこの作品を担当することになった豊田薫監督は、過去の素材、ダイヤモンド映像の社長の村西とおるや他の専属女優へのインタビュー等で作品を組み立てることになった。ダイヤモンド映像は部屋を借りて、専属女優に住み込みさせる習わしがあったが、作品には「撮影2日前、桜樹ルイの部屋の電話が不通になった・・・」というテロップが挿入されている。これはAVにありがちなフェイクドキュメンタリーではなくて、ノンフィクションとして制作されており、この失踪の理由として桜樹は、ダイヤモンド映像のハードスケジュール、豊田への不信感、村西による贔屓女優との差別で正当に評価されてないことなどを挙げており、失踪後に出した『桜樹ルイの非口全ワイセツ』の中でこのことを糾弾している[8][9]。その後、改名後のデビュー作を出したメーカーのVIPの社長の口利きで、業界に復帰することができた[10]。 1991年は桜樹ルイの人気は頂点を極め全国でサイン会を決行、歌舞伎町のビデオショップにファン300人、特に北海道では3ヶ所で1,300人を集めた[11]。6月6日に専修大学でイベントに出演、10月31日、東京経済大学の学園祭に招かれステージで歌い、その夜は中央大学でトークショーを行い、その模様は『こだわりTV PRE★STAGE』(テレビ朝日)で放送された。11月2日には立教大学の学園祭にも出演し、300人余りのファンの前で歌やトークショー、ゲームで盛り上がった[12]。 12月18日、東京大飯店でAVメーカーのVIP、KUKI、ジャパンホームビデオ、ロイヤルアートが合同で行った「91'AV大感謝祭」でグランプリを受賞[13][14]。 AV誌『オレンジ通信』(東京三世社)読者投票1位で1990年度AVアイドル賞受賞[15]。 AV誌『アップル通信』(三和出版)の1991年度の読者の人気投票で年間総合ランキング1位[16]。 雑誌『GORO』(小学館)が行った、1991年度のもっともすぐれたAV女優に送るAVマドンナ横綱賞を獲得[17]。 1991年に俳優、森山周一郎が監督する映画『幻想のParis』 (1992年公開)に出演したのをきっかけに、女優への転身を志し、同年暮れにはAV女優を引退、芸能界への進出を本格化させる。 1992年にはNHKのテレビドラマ『とおせんぼ通り』に出ることによって親との勘当も解ける[6]。 ロックバンドCHERRY LOUIE (チェリー・ルイ) を結成し、CDシングル1枚をリリースした。 しかし1995年10月、元AV女優ということで脱ぐシーンばかり要求される芸能界に行き詰まりを感じて、ストリッパーとして浅草ロック座よりデビュー、連日、超満員の大盛況となる[2]。
略歴