桜木町事故
[Wikipedia|▼Menu]

桜木町事故
事故発生直後の現場写真
発生日1951年(昭和26年)4月24日
発生時刻13時45分頃(JST)
日本
場所神奈川県横浜市中区桜木町
路線東海道本線支線(現:根岸線
運行者日本国有鉄道
事故種類列車火災事故
原因架線・パンタグラフのショート
統計
列車数2両(5両編成)
死者106人
負傷者92人
テンプレートを表示
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "桜木町事故" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2022年5月)

桜木町事故(さくらぎちょうじこ)は、1951年(昭和26年)4月24日13時45分頃、神奈川県横浜市日本国有鉄道(国鉄)東海道本線支線(京浜線。現在の京浜東北線及び根岸線の一部)の桜木町駅[注釈 1]構内で発生した列車火災事故。死者106人、負傷者92人に及ぶ被害を出した。

出火原因は電気工事作業員のミスにより垂れ下がっていた架線に列車が接触してショートしたことであるが、乗客は非常時にドアを自力で開けることができず、また隣の車両へ移ることも、窓から脱出することもできなかったために炎上する車両に閉じ込められたこと、また桜木町駅周辺は写真でも分かる通り高架線になっており消火活動が難航したことが多数の被害者を出す要因になった。

犯罪的所業によるものではないが、桜木町事件と呼ばれることもある。この事故後、自動扉つきの客車内には乗降扉非常圧搾空気開放弁(非常ドアコック)の設置と表示が義務化され、緊急時にドアを乗客が手動で開けられるよう法令が改正された。
事故概要

1951年4月24日13時38分頃、国鉄京浜線桜木町駅構内から200m横浜寄りの上り線で、架線碍子の交換工事を行っていた電気工事作業員が誤ってスパナを落としたことで架線のメッセンジャーワイヤーが鉄塔に接触してショートし、同ワイヤーが断線した。その影響で上り線の架線が固定されず垂れ下がってしまった。作業員らは上り線のみ列車を進入させないように手配を行ったが、下り線に対しては対策を取らずに通常通り運行できると判断した。

そこへ、京浜線の赤羽発桜木町行き下り第1271B電車(63系5両編成、所定ダイヤより9分遅れ)が下り線からポイントを渡って上り線に進入してきた。運転士は架線が垂れ下がっていることに気づかず、信号も進行現示であったことから35km/hで電車を進行させたが、垂れ下がった上り線の架線に先頭車のパンタグラフが絡まった。運転士は急いでパンタグラフを下ろそうとしたが、先頭車のパンタグラフは架線が絡みついた影響で破損し、車体と接触した状態になったため電流の短絡が発生した。

変電所で遮断器が作動せずに電流が流れ続けたため、破損したパンタグラフから激しい火花が飛び散って先頭車両の屋根の可燃性塗料に着火し、先頭車両は木製の屋根から炎上を始めた。架線からの電流は約5分間にもわたって流れ続け、先頭車両のモハ63756は全体が激しい炎に包まれて約10分間で全焼。火災はさらに2両目のサハ78144にも延焼し始めたため、運転士は3両目から後ろの車両を延焼する車両から切り離す措置を取った。しかし、1両目に乗っていた乗客の大半が炎上する車両から脱出することができず、救出も思うように行われなかった。最終的に、死者106人・重軽傷者92人を出す大惨事となった。

事故車両のは3段構造になっており、上段と下段を開閉可能にして中段を固定していた。上下段の開口部の縦幅はそれぞれ29cmしかなく、窓からの脱出は不可能に近かった。電流の短絡が起きていたため、運転士や車掌の操作による自動扉の開放はできなかった。車内には非常用ドアコックが設置されていたが、乗客はおろか乗務員ですらドアコックの位置が分からなかったことから、扉を開けることができずに脱出する機会を失った[注釈 2]。やむなく運転士が先頭車両の車端貫通路から乗客を救出しようとしたが、当時の車両の貫通路は車両間の乗客の移動を目的としたものではなく内開きになっており、しかも扉の外側から施錠されていた。辛うじて2両目の貫通路だけは開けられたものの、1両目は脱出しようとする乗客の圧力で扉が開かなかったとされる。結果として、1両目の乗客は窓を枠ごと蹴破って破壊する以外に脱出する術がなく、これが人的被害を拡大する要因となった。またこのような脱出困難な状況は、高架線上での事故だったこともあり火災に気づいて集まった群衆は救出活動ができず、救助を求める乗客が絶命していく姿を見ているしかないという地獄絵図を生んだ。

事故当時、桜木町駅付近の架線に電気を供給していたのは横浜変電所と鶴見饋電区分所であったが、横浜変電所は高速度遮断器が作動し給電を停止できたものの、鶴見饋電区分所の高速度遮断器は作動せず、約5分間にわたってさらに遠方の川崎変電所から架線に電気が流れ続けたことも火の勢いを強めた要因とされている。

本件事故の2年前、1949年9月27日に京阪本線香里園駅付近で電流の短絡によって発生した火災事故でも自動扉は開かず、乗客は窓を破って脱出せざるを得なかった[1]。本件事故と状況が酷似しているが、その教訓は生かされなかった。
被害拡大の原因63系電車(1947年頃、池袋)

被災した63系電車は、重要な安全部品を省略したり粗悪な代用品を使用した、いわゆる戦時設計によって製造された車両であった。可燃性材料の多さについては戦前期の電車にも共通する部分があるものの、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}63系では可燃性の塗料やベニヤ板の天井内張りなど燃焼性の高い材料が多用されており、不燃構造は戦前車よりも劣るものであった。[要出典]

さらにモハ63形は、一般的に絶縁被覆と防護鋼管で覆われているべき室外配線を棚状の構造物の上に所々を縛った形で並べるなど、電気配線の構造上の問題や、当時の絶縁被覆が良質なものでない電線を使用した状態がいずれもそのまま放置されている構造であり、その上電流短絡事故の際に必要な保安機器の一部も省略されていた。そのため、車体に架線の電流が流れて火花が発生するなどした場合に炎上しやすい構造であった。関連して、本件事故が発生する以前からモハ63形に限らず、この時期の電車全般は外的要因(本件事故では架線切断)がなくとも小規模な発煙および発火事故を日常的に起こしており、ひどい場合は全焼して事故廃車となることさえあった。クモハ73001(手前)
桜木町事故後1952年に体質改善工事を受けた元モハ63143
クハ79326(奥)
1953年製 木製三段窓は中段可動に設計変更

また、窓については63系では立ち客への通風の改善とガラス不足を補うべく三段式になっており、中段が固定されている構造のために脱出が不可能であった。63系より前の車両のように二段式であったなら、あるいは三段式であっても中段も可動する構造になっていたならば、開口部が大きいため脱出が可能であり、犠牲者数は激減したであろうといわれている[誰によって?]。乗降扉についても、1946年(昭和21年)6月4日に発生した中央線乗客転落事故の教訓により木製扉から鋼製扉への交換および新製時からの採用が進行していたことが、ドアコック表示不備[注釈 3]も相まって結果としては裏目に出る形となった(本件事故のモハ63756も鋼製ドアを装備)。

同じく、車両の妻面にある貫通扉も引き戸ではなく内側に開く構造であった。当時はもっぱら近距離の輸送手段であった電車には、客車のようなつきの貫通路は設置されておらず、乗客がここを通ることは想定されていなかった[注釈 4]。そのため、超満員の乗客の圧力で扉を開けることができず、ここからの脱出も不可能であった。

地上側の要因として、鶴見饋電区分所(当時の名称は鶴見キ電室)が即座にき電[注釈 5]停止しなかった点が挙げられる。現場に最も近い横浜変電所は、事故電流を検知して即座に遮断器が開放してき電停止したが、鶴見饋電区分所の遮断器はそれより遠方のため事故電流を検出できず、川崎変電所からのき電が継続され続けた。本来、横浜変電所の遮断器が開放すれば遠方からのき電は行われないはずであるが、この事故の前に起きた汐留変電所(現在の新橋変電所)の火災復旧のため遮断器4機のうち2機が取り外されており、き電回路がT形となっていたため、川崎変電所からの電流を止めることができなかった[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef