桜井梅室
[Wikipedia|▼Menu]

桜井 梅室
櫻井梅室像。歌川広重画。東京国立博物館所蔵。
ペンネーム本姓:橘氏、諱:能充、別号:雪雄、素芯、素信、方円斎、陸々、遅速庵、余花園、寒松庵、相応軒[1]
誕生桜井次郎作
明和6年11月27日1769年12月24日
加賀国金沢升形
死没嘉永5年10月1日1852年11月12日
山城国京都東洞院通仏光寺
墓地京都市本禅寺、金沢市慶覚寺
職業俳人
言語日本語
教育上田馬来、 高桑闌更
活動期間享和元年(1801年) - 嘉永5年(1852年
ジャンル俳諧
文学活動天保俳諧
代表作『梅室家集』
主な受賞歴花下宗匠(二条家
デビュー作『さるのめん』
子供桜井能監、一時養子:内海淡節
親族孫:桜井小太郎
テンプレートを表示

桜井 梅室(さくらい ばいしつ、明和6年11月27日1769年12月24日) - 嘉永5年10月1日1852年11月12日))は江戸時代後期の俳人成田蒼?田川鳳朗と共に天保の三大家に数えられる[2]。前職は加賀藩研師。上田馬来に俳諧を学び、秋槐庵4世を襲名、京都大坂江戸金沢を渡り歩きながら活動した。
生涯
上京前

明和6年(1769年)11月27日加賀国金沢升形に生まれた[1]。幼名は次郎作[1]天明6年(1786年)16歳で俳諧を志し[3]、当初上田馬来に入門したが、寛政4年(1792年)死去したため、その師高桑闌更に就くも、寛政10年(1798年)闌更も死去したとされる[4]。但し、闌更に直接師事していたことを示す当時の資料はなく、馬来が無名だったため、より高名な闌更に付会されたものとする説もある[5]

寛政12年(1800年)秋槐庵3世和泉屋李下が早逝すると、2世成田蒼?の勧めで庵を継いだ[3]享和元年(1801年)春 京都で蒼?に挨拶を済ませ、最初の春帖『さるのめん』を刊行して中央俳壇に登り、帰郷した[6]
上京

金沢では家業のため俳諧に専念できず[7]文化4年(1807年)家業を弟子に譲って上京した[1]。当初清瀬茂良宅に身を寄せ、八木岱李宅で越年した後、文化5年(1808年)3月宇治を訪れ、11月帰京、文化6年(1809年)3月妻子を呼び寄せた[1]。この年から選集『四時行』を毎年刊行するなど活動を本格化させたが、生活は貧しく、七五三長斎編『万家人名録』の版下を書くなどして糊口を凌いだ[8]

文政2年(1819年)5月須磨明石淡路島を旅し、文政3年(1820年)春大坂に転居、9月中国地方を旅し、安芸国で年を越した[1]
江戸下向

文政5年(1822年)守村抱儀により江戸に招かれ[9]伊勢国尾張国で交流しつつ三河国吉田で年を越し、文政6年(1823年)4月27日江戸に到着した[1]

文政7年(1824年)3月鹿島神宮に参詣、文政8年(1825年)2月 利根川筋を旅し、6月帰宅した[1]。文政9年(1826年)剃髪した[1]。文政10年(1827年)3月佐原東金新勝寺を巡り、安房国素共庵に逗留した[1]

文政12年(1829年)3月21日神田豊島町の自宅を焼け出され、5月佐原、東金を再訪した[1]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:47 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef