さくらい まさひろ
桜井 政博
原田勝弘のYouTubeチャンネル、「Harada's Bar・はらだのばぁー」に出演した桜井
2021年8月22日 撮影
生誕 (1970-08-03) 1970年8月3日(53歳)
日本 東京都武蔵村山市
職業ゲームデザイナー、ゲームディレクター
活動期間1989年 -
著名な実績『星のカービィシリーズ』『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』の制作
配偶者あり
公式サイト桜井政博 Twitter
桜井政博のゲーム作るには
YouTube
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桜井政博のゲーム作るには
Masahiro Sakurai on Creating Games
活動期間
桜井政博のゲーム作るには
2022年 -
Masahiro Sakurai on Creating Games
2022年 -
ジャンルゲーム開発
登録者数
桜井政博のゲーム作るには
50.5万人
Masahiro Sakurai on Creating Games
54.1万人
総再生回数
桜井政博のゲーム作るには
2336万回
Masahiro Sakurai on Creating Games
1053万回
YouTube Creator Awards
登録者100,000人2022年
チャンネル登録者数・総再生回数は
000000002023-03-21-00002023年3月21日時点。
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桜井 政博(さくらい まさひろ、1970年8月3日 - )は、日本のゲームクリエイター。ゲーム制作会社有限会社ソラの設立者で代表取締役。
『星のカービィシリーズ』と『大乱闘スマッシュブラザーズシリーズ』(スマブラ)の生みの親で、主にディレクションを手がける。 東京都武蔵村山市出身。幼少期からコンピュータゲームを嗜んでおり、雑誌のインタビューで、5歳頃にパドルコントローラでボールを跳ね返すテニスゲームを遊び、その物理法則を無視した世界観に「すごい!」と思ったと述べている[1]。 中学生になるとお金をためてファミリーベーシックを購入。ビデオゲームを作る楽しさを教わった、とも語っている[2]。更に、ファミリーベーシックは人生のターニングポイントであり、これがなければ『カービィ』や『スマブラ』も生まれなかったと語っている[3]。 ゲーム制作への関心は人一倍強かったものの、中学卒業後はおぼろげな専門家という職業への憧憬を抱いて電気工学系の高等専門学校に進学した[4]。 しかし次第に高専での授業と自分自身の描いていた将来とのギャップに気付き始め、自分の見通しの甘さを省みて、改めて進路を考え直すことにした[4]。純粋な興味の強さ、また1988年3月にセガ主催のファンタシースターIIストーリー募集キャンペーンでゲームシステム大賞に思いがけず入賞した経緯もあって、ゲームクリエイターを志すことを決心して高専を中退、普通高校に編入した。 高校在学中はアルバイトをしながら資金を貯め、それをゲームソフトの購入に注ぎ込んでひたすら研究をした。後にこれがきっかけで現在も膨大な数のソフトを買い、遊ぶ(研究する)習性がついたと語っている[4]。 研究したゲームソフトの中で、HAL研究所(ハル研)制作の『ガルフォース』の作り込まれたエンディングを見た桜井は、そこから制作者の熱意と信念を汲み取り[5]、高卒後の1989年に同社へ入社した[4]。 入社してまもなく社内で募集された「だれもが楽しめるゲームの企画」から構想を練っていったが、3年後の1992年、当時21歳にして初のディレクターを務めたのが、ゲームボーイソフト『星のカービィ』である[6]。同作は日本のみならず全世界累計500万本以上を売り上げるヒットとなり、同時にこれが会社の経営危機を救済することにもなる。『星のカービィ』は主役のキャラクターデザインから吸い込み・吐き出し・ホバリングといったゲームシステムの大部分を桜井が企画し、グラフィックを描き起こした[7]。 会社再建をかけた次回作『星のカービィ 夢の泉の物語』もディレクターを務め、前作でウィークポイントに挙がった難易度の低さをコピー能力の導入や大幅なボリュームアップで補った。その結果1993年発売時は既にハード終焉期だったにもかかわらず、ファミコン最後のミリオンセラーを達成するほどであった。
来歴
ハル研究所入社まで(1970年 - 1989年)
ハル研究所在籍時代(1989年 - 2003年)