.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}桜井(さくらい) センリ
出生名桜井 千里
別名桜井 ヘンリー
生誕 (1926-03-20) 1926年3月20日
出身地 日本
死没 (2012-11-10) 2012年11月10日(86歳没)
学歴早稲田大学第一政治経済学部中退
ジャンルジャズ・お笑い
職業ピアニスト・コメディアン・俳優
担当楽器ピアノ
活動期間1952年 - 2012年
共同作業者ハナ肇とクレージーキャッツ
公式サイト ⇒公式プロフィール
桜井 センリ(さくらい センリ、1926年(大正15年)3月20日[1] - 2012年(平成24年)11月10日)は、日本のピアニスト、コメディアン、俳優。本名・桜井 千里。ワタナベエンターテインメント所属。 公式プロフィール上では1930年(昭和5年)3月20日生まれとなっているが、実際は1926年(大正15年)生まれ。これはハナ肇とクレージーキャッツの他のメンバーとバランスをとるためだといわれている(最年少の安田伸は1932年(昭和7年)生まれ)。その結果、旧制中学の後輩である石橋エータロー、犬塚弘より年少ということになってしまっている。旧名・桜井 ヘンリーとして父志郎の赴任地のイギリス・ロンドンに生まれ、3歳までその地で育つ。いわゆる帰国子女。父は日本人会の代表幹事[2]であった。日本に帰国後、千里と改名したとも言われるが、本名はもともと桜井千里だったとする資料もある[注釈 1]。 西巣鴨第三尋常小学校に入学し、4年生から東京音楽学校付属上野児童音楽学園へ通いクラシックピアノを習う[2]。暁星中学校を経て、早稲田大学第一政治経済学部に入学。大学2年のとき「サンバレー・スイング・バンド」というグループからピンチヒッターを頼まれ、のち正式に加入してジャズピアニストとしての活動を開始[2]。 大学中退後、様々なバンドを転々とする。1952年(昭和27年)には、穐吉敏子が渡米してピアニストが不在になったゲイスターズに穐吉の後任として参加。その後、鈴木康允
経歴・人物
1960年(昭和35年)に植木の紹介で[2]ジャズバンド「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」に参加。結核のため療養中だった石橋エータローの穴を埋めるべく、約1年間、石橋の代役を務める。石橋復帰後は植木などから「脱退させるべき」との意見が出たが、「せっかく仲間になったんだから」とリーダーであるハナ肇が他のメンバーを説得し正式加入。石橋が脱退する1971年まで、クレイジー・キャッツは、ピアニストが2人という変則的な形をとり、「連弾」というスタイルを生かしたコントも行うようになる(その後も石橋はクレイジーに度々客演しており、連弾は定番となる)。演奏スタイルは石橋は大胆、桜井は繊細と言われる。
バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、大柄な犬塚弘と組んだアクションが有名。
作曲家としての活動歴があり、スリーファンキーズのシングル盤「ナカナカ見つからない」、弘田三枝子のシングル盤「明日をみつめて」(2曲とも作詞は青島幸男)の作曲を本名の桜井千里名義で担当している。
また俳優としても活躍し、『なつかしい風来坊』(松竹)や『クレージー黄金作戦』(東宝)など多くの映画やテレビ番組などに出演している。また、山田洋次の作品に度々重用され、『男はつらいよ』にも様々な役柄で登場した。舞台でもバイ・プレーヤーとして活躍する。
「キンチョール」CMに出演した「センリ婆さん」のキャラクターも有名。このCMで桜井が言った「ルーチョンキ」という言葉は当時の流行語となった[2]。
生前の桜井はクラシック音楽やオペラにも造詣が深く、専門誌にしばしば原稿を執筆していた。