桓 温(かん おん、永嘉6年(312年)- 寧康元年7月14日[1][2](373年8月18日))は、東晋の政治家・軍人。字は元子[3]。?国竜亢県の人。父は宣城内史桓彝。母は孔憲。後漢の儒学者桓栄、三国時代の魏の政治家桓範[4]の後裔であるという。東晋の将軍として、成漢を滅ぼし、洛陽を奪還するなどの大功を挙げた。 桓温は豪快な人柄で品格があり、立派な姿貌を備えていた。また、顔には七星のようなあざがあった。若い頃には劉?と交流があり、劉?からは「温(桓温)の眼は紫の石?のようであり、髭は乱れ毛が右払いになっている。孫仲謀(孫権)や晋宣王(司馬懿)に準ずるものがある」と評された。 咸和3年(328年)、父の桓彝が蘇峻の乱の最中、東晋に背いた韓晃により殺された。後に韓晃は敗れて討ち取られたものの、桓彝殺害の謀略に加担していた県県令江播
生涯
若き日
やがて東晋に仕えた桓温は父の爵位である万寧県男を継ぎ、加えて明帝の長女である南康公主司馬興男を妻に迎え、皇帝の婿として?馬都尉・琅邪太守・徐州刺史・都督青徐?三州諸軍事を務めるなど急速に昇進を重ねた。また西府軍(荊州一帯の軍団を指す。これに対して建康に駐屯する軍団を北府軍という)を統括していた外戚の荊州刺史?翼とは親交があり、桓温を高く評価していた彼は明帝に対し、桓温に人並みの待遇ではなく国家の大役を任せるよう進言していたという。当時、?翼は前燕の慕容?や前涼の張駿と連携しての後趙・成漢の征伐計画(前燕と前涼は、当時は東晋の藩国であった)を立てており、難題が多い事から朝議では皆その作戦に否定的であったが、桓温は?冰・司馬無忌
らと共に彼の作戦に賛成していたという。しかし永和元年(345年)、?翼は病により没した。西府軍におけるその後任として、当初は子の?爰之が挙げられたが、侍中の何充は彼では力不足だとして、代わって桓温を西府軍の指揮官に推薦した。これに対し丹陽尹劉?は桓温の野心を警戒したため、対抗馬として会稽王司馬cを推薦し、自らがその軍司(軍事を監察する役職)を務める案を挙げた。しかし司馬cはこれに応じなかったので、結局桓温に白羽の矢が立った。こうして桓温は持節・都督荊司雍益梁寧六州諸軍事・安西将軍・荊州刺史に任じられ、護南蛮校尉を兼任した。これにより荊州に出鎮して西府軍を統括し、長江上流の兵権を握る事となった。?爰之は敢えてこの人事に対して異を唱える事はなかったので、大きな混乱は見られなかった。 成漢の君主の李勢は荒淫で無道な人物であり、その国力は日を追うごとに衰えていた。永和2年(346年)10月頃、桓温は西伐を敢行して成漢を滅ぼし、勲功を打ち立てようと考えたが、諸将はみな失敗すると考えてこれに反対したが、ただ一人江夏相袁喬だけは桓温の意見に賛同した[5]。これにより、桓温は周囲の反対を押し切って西伐を決断した。 11月、桓温は成漢征伐の作戦を決行した。朝廷の百官らは蜀の地は険阻で遠方にあり、また桓温の兵が少ない事を憂慮し、書を送って深入りしないよう桓温を諫めたが、桓温はこれを無視した。永和3年(347年)正月、成漢領内に進軍すると、諸将は軍を分けて二道より進み、成漢軍の勢いを分散させるべきだと主張したが、袁喬は「軍を分けてしまえば兵心も一つとはならず、万一片方でも敗れれば大事は去ってしまいます。ここは釜・鍋は棄てて3日分の食料のみを携帯し、逃げ帰るという選択肢が無い事を全軍に示すべきです。そして全軍を挙げ一丸となって進軍し、一戦で決着を付ければ勝利は間違いありません」と進言した。桓温はこの意見に同意し、3日分の食糧のみを携え、歩兵を率いてまっすぐ首都の成都へと進撃した。 桓温は成漢の李福・李権らの軍を撃破し、成都城外まで十里の所まで進撃した。李勢は全軍を動員して桓温軍を迎え撃ち、?橋
成漢攻略
成漢の司空?献之(?縦の祖父)・尚書僕射王誓・中書監王瑜・鎮東将軍ケ定・散騎常侍常?らは良臣であった事から、桓温は彼らの罪を免じて参佐[6]に取り立てた。他にも当地の賢人を登用してその善行を表彰したので、蜀の民はみな喜んだという。しかし後に王誓・ケ定らは反乱を起こしため、桓温は自ら出撃してケ定を撃ち、また益州刺史周撫に命じて王誓らを討伐させた。乱が鎮圧されると、桓温は軍隊を整備して再編成した後、江陵へ帰還した。成都に留まる事30日であった。
永和4年(348年)8月、朝廷により蜀平定の功績が論じられると、桓温は豫章郡公の地位を望んだ。だが、その権勢を危惧した尚書左丞荀?は「(今ここで豫章郡公の地位を与えてしまえば)温(桓温)がもし今後、河・洛の地を平定した暁には、どうやってそれを賞するというのですか」と反対したので、認められなかった。最終的に桓温は征西大将軍に任じられ、開府儀同三司の特権を与えられ、さらに臨賀郡公に封じられた。 蜀平定の功績により桓温の声望は大いに振るったので、朝廷は彼を制御出来なくなるのを憂慮して警戒を強めていた。揚州刺史殷浩は大いに名声を博していたので、会稽王司馬cは彼を朝政に参与させる事で桓温を抑え込もうとした。 桓温は自ら兵士・物資をかき集め、次第に荊州で半独立状態となり、不臣の心を抱くようになっていった。朝廷は彼を建康に招くことは出来ないと知っていたが、敢えて幾度も招聘を掛けて彼の心を繋ぎ止めようとした。国内でもまだ変事は起きていなかったので、表面上は君臣の仲はまだ良好であった。 永和5年(349年)4月、桓温は督護滕o
殷浩との対立
6月、後趙皇帝石虎が崩御すると、桓温は北伐を敢行して中原を奪還する絶好の好機と捉え、安陸へ出鎮して諸将に北方を窺わせた。また、併せて朝廷へ上疏し、水軍・陸軍の動員を請うたが、長い間返答はなかった。
後に殷浩らが作戦に反対していることを知り、桓温はひどく憤った。その一方、殷浩の事を大した人物ではないと見做していたので、全く恐れてはいなかったという。その後も数年に渡り幾度も北伐を要請したが、朝廷が聞き入れる事は無かった。
永和6年(350年)11月、?族酋長苻健(前秦の初代君主)が長安を占拠すると、彼は表向きは東晋の臣を称していたので、桓温の下へ使者を派遣して誼を通じたという(但し、翌年1月には再び態度を翻して自立し、前秦を建国する)。
永和7年(351年)12月、桓温は全く動こうとしない朝廷に痺れを切らし、再び上奏文を送ると共に5万の軍を率いて長江を下って武昌に駐留し、建康を威圧した。桓温到来の報に朝廷は震え上がり、殷浩は辞職して桓温に実権を譲ろうとした。また、?虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を立てて、桓温軍を留めようとした。内外では様々な噂が飛び交い、桓温の謀反を疑って人心は動揺した。司馬cは桓温に書を送って国家の方針を説明し、また朝廷より疑惑を抱かれていることを忠告した。これを受けて桓温は軍を返すと共に上疏して[7]、武昌へ軍を動かしたのは趙・魏の地を掃討するための準備であり、自分が反乱を目論んでいるという疑惑について弁明した。また、北伐が許可されない件について不満を漏らし、朝廷内に蔓延る佞臣の存在を痛烈に批判した。後に桓温は太尉に進められたが、太尉になるということは中央へ帰還するということであり、事実上桓温の軍権を奪い去る為の措置であったので、これを固辞した。
永和8年(352年)2月、益州牧を自称して益州で反乱を起こしていた蕭敬文討伐の為、督護ケ遐・益州刺史周撫を?城へ侵攻させたが、彼らはこれを撃ち破る事が出来ずに撤退した。8月、さらに梁州刺史司馬勲を派遣し、周撫らに協力させた。彼らは?城を守る蕭敬文を撃ち破ると、その首級を挙げた。
永和8年から翌9年(353年)にかけて、殷浩は数度に渡り北伐を敢行したが、幾度も敗北を繰り返して兵器を使い切ってしまったので、天下より謗られる事となった。永和10年(354年)1月、官民が殷浩の失敗を甚だ恨んでいるのを見て、桓温は殷浩の罷免を上奏した。上奏は認められ、殷浩は庶人に落とされた。これにより内外の大権は全て桓温の手中に入り、桓温の北伐を止められる者は誰もいなくなった。 2月、桓温は遂に北伐を実行に移し、前秦の首都長安攻略を目標に定めた。歩騎兵併せて4万を率いて江陵を出発し、水軍は襄陽から均口に入って南郷へと至り、陸軍は淅川から武関へ侵攻した。また、梁州刺史司馬勲には子午道から関中に入らせ、前秦を共同で撃った。同月、別動隊を上洛へ侵攻させ、前秦の荊州刺史郭敬
第一次北伐