桓武天皇
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桓武天皇
『桓武天皇像』
延暦寺
第50代天皇
在位期間
781年4月3日[1] - 806年4月9日
天応元年4月3日 - 延暦25年3月17日
即位礼781年5月12日(天応元年4月15日
大嘗祭781年12月4日(天応元年11月15日
元号天応
延暦
時代奈良時代 - 平安時代
先代光仁天皇
次代平城天皇

誕生737年天平9年)[2]
平城京
崩御806年4月9日延暦25年3月17日[3]
平安京
大喪儀806年4月28日(延暦25年4月7日
陵所柏原陵
漢風諡号桓武天皇
和風諡号日本根子皇統弥照天皇
追号桓武天皇
諱山部
別称柏原帝
日本根子皇統弥照尊
天國押撥御宇柏原天皇
父親光仁天皇
母親高野新笠
皇后藤原乙牟漏
夫人藤原旅子
藤原吉子
多治比真宗
藤原小屎
子女平城天皇
嵯峨天皇
淳和天皇
伊予親王
葛原親王
万多親王
良岑安世ほか(后妃・皇子女節参照)
皇居平城宮長岡宮平安宮
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桓武天皇(かんむてんのう、737年天平9年〉- 806年4月9日延暦25年3月17日〉)は、日本の第50代天皇(在位:781年4月30日天応元年4月3日〉 - 806年4月9日〈延暦25年3月17日〉)。は山部(やまべ)。

平城京から長岡京および平安京への遷都を行った。また、践祚と日を隔てて即位した初めての天皇であり、桓武平氏の始祖となる。
略歴

白壁王(後の光仁天皇)の長男(第一皇子)として天平9年(737年)に産まれた。生母は百済渡来人氏族の和氏の出身である高野新笠。当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭侍従に任じられた(光仁天皇即位以前は山部王と称された)。その状況が大きく変化するのは34歳の時に称徳天皇崩御によって父の白壁王が急遽皇位を継承することになってからである。

父王の即位後は親王宣下と共に四品が授けられ、後に中務卿に任じられたものの、生母の出自が低かったため立太子は予想されていなかった。しかし、藤原氏などを巻き込んだ政争により、異母弟の皇太子他戸親王の母である皇后井上内親王宝亀3年3月2日(772年4月9日)に、他戸親王が同年5月27日(7月2日)に相次いで突如廃されたために、宝亀4年1月2日773年1月29日)に皇太子とされた。その影には式家藤原百川による擁立があったとされる[注釈 1]。なお井上内親王と他戸親王は同日に同じ幽閉先で逝去したが、他戸親王の実姉(桓武天皇の異母妹にあたる)の酒人内親王を妃として、朝原内親王を儲けた。

天応元年4月3日(781年4月30日)には父から譲位されて天皇に即き、翌日の4日5月1日)には早くも同母弟の早良親王を皇太子と定め、11日後の15日5月12日)に即位を宣した。延暦2年4月18日783年5月23日)に百川の兄の藤原良継の娘の藤原乙牟漏を皇后とし、彼女との間に安殿親王(後の平城天皇)と神野親王(後の嵯峨天皇)を儲けた。また、百川の娘で良継の外孫でもあった夫人藤原旅子との間には大伴親王(後の淳和天皇)がいる。

右大臣に藤原是公を、中納言に藤原種継を抜擢し、これに大納言の藤原継縄(是公没後に右大臣)を加えた3名が特に重用され、前期の治世を支えた[5]

延暦4年(785年)9月頃には、早良親王を藤原種継暗殺の廉により廃太子の上で流罪に処し、親王が抗議のための絶食で配流中に薨去するという事件が起こった。これを受け、同年11月25日(785年12月31日)に安殿親王を皇太子とした。また、同年11月10日、交野柏原(現在の大阪府枚方市)において、日本で初めて、天を祀る郊祀を行った。

延暦6年(787年)11月5日に、交野柏原において、2度目の郊祀を行った。

延暦10年(791年)、藤原乙牟漏の亡きあとに神野親王(嵯峨天皇)の乳母を務めた大秦公忌寸浜刀自女に賀美能宿禰の姓を贈る(続日本紀)。

在位中の延暦25年3月17日(806年4月9日)に崩御。宝算70。安殿親王が平城天皇として即位した。
治世

平城京における肥大化した奈良仏教各寺の影響力を厭い、天武天皇流が自壊して天智天皇流に皇統が戻ったこともあって、当時秦氏が開拓していたものの、ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂藤原小黒麻呂北家)らの提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当たる場所の平安京へ改めて遷都した。

また、蝦夷を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行、延暦8年(789年)に紀古佐美征東大使とする最初の軍は惨敗したが、延暦13年の2度目の遠征で征夷大将軍大伴弟麻呂の補佐役として活躍した坂上田村麻呂を抜擢して、延暦20年(801年)の3度目の遠征で彼を征夷大将軍とする軍を送り、田村麻呂がアテルイら500人の蝦夷を京都へ護送した延暦21年(802年)に蝦夷の脅威は減退、延暦22年(803年)に田村麻呂が志波城を築いた時点でほぼ平定された。

しかし晩年の延暦24年(805年)には、平安京の造作と東北への軍事遠征がともに百姓を苦しめているとの藤原緒嗣(百川の長男)の建言を容れて、いずれも中断している(緒嗣と菅野真道とのいわゆる徳政相論)。

また、軍隊に対する差別意識と農民救済の意識から、健児制を導入したことで百姓らの兵役の負担は解消されたが、この制度も間もなく機能しなくなり、9世紀を通じて朝廷は軍事力がない状態になった。ただし、健児導入の目的について、紀古佐美の遠征軍が騎馬を巧みとする蝦夷に太刀打ちできなかったために、従来の中国大陸・朝鮮半島からの沿岸防備を念頭に置いて編成された農民を徴集した歩兵に代わって対蝦夷戦争に対応した騎兵の確保を目指した軍制改革であったとする新説も出されている[6]

文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄を還学生(短期留学生)として天台宗を学ばせ、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた既存仏教に対しては封戸の没収など圧迫を加えている。また後宮の紊乱ぶりも言われており、それが後の薬子の変へとつながる温床となったともされる。

その他、即位前の宝亀3年には井上内親王と他戸親王の、在位中の延暦4年には早良親王の不自然な薨去といった暗い事件が多々あった。井上内親王や早良親王の怨霊を恐れて延暦19年7月23日800年8月16日)に後者に「崇道天皇」と追号し、前者は皇后位を復すと共にその墓を山陵と追称したりしている。

治世中は2度の遷都や東北への軍事遠征を主導し、地方行政を監査する勘解由使の設置など、歴代天皇の中でもまれに見る積極的な親政を実施したが、青年期に官僚としての教育を受けていたことや壮年期に達してからの即位がこれらの大規模な政策の実行を可能にしたと思われる。
系譜

桓武天皇の系譜

                 

 16.
第34代 舒明天皇
 
     

 8. 第38代 天智天皇 
 
        

 17. 第35代 皇極天皇・
第37代 斉明天皇

 
     

 4. 施基親王 
 
           





 9. 道伊羅都売 
 
        





 2. 第49代 光仁天皇 
 
              

 20. 紀国益?
 
     

 10. 紀諸人 
 
        





 5. 紀橡姫 
 
           





 11. 道氏 
 
        





 1. 第50代 桓武天皇 
 
                 













 6. 和乙継 
 
           













 3. 高野新笠 
 
              













 7. 土師真妹 
 
           















系図


    

34
舒明天皇 

                             
                           
古人大兄皇子 38 天智天皇
(中大兄皇子) 間人皇女(孝徳天皇后)             40 天武天皇
(大海人皇子)

                                                                    
                                                         
倭姫王
(天智天皇后) 41 持統天皇
(天武天皇后) 43 元明天皇
(草壁皇子妃) 39 弘文天皇
(大友皇子) 志貴皇子     高市皇子 草壁皇子 大津皇子 忍壁皇子     長皇子     舎人親王     新田部親王

                                                                              


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