桓帝 劉志
後漢
第11代皇帝
王朝後漢
在位期間本初元年閏6月7日 - 永康元年12月28日
(146年8月1日 - 168年1月25日)
都城?陽(洛陽)
姓・諱劉志
諡号孝桓皇帝
廟号威宗
生年陽嘉元年(132年)
没年永康元年12月28日
(168年1月25日)
父劉翼
母?明
后妃梁皇后
ケ皇后
竇皇后
陵墓宣陵
年号建和(147年 - 149年)
和平(150年)
元嘉(151年 - 153年)
永興(153年 - 154年)
永寿(155年 - 158年)
延熹(158年 - 167年)
永康(167年)
桓帝(かんてい)は、後漢の第11代皇帝。章帝の曾孫。河間王劉開の孫。蠡吾侯劉翼の子。弟は勃海王劉?・平原王劉碩。順帝の族弟(劉氏一族中の年少の“いとこ”に当たる)。側室のひとりは寇恂の六世の孫(寇栄
の従孫女)で、妹の益陽公主は寇恂の玄孫(寇栄の従兄の子)に嫁いだ[1]。男子がなく、一族の河間王の系統である霊帝がついだ。質帝が梁冀により毒殺された後、権勢保持のために梁冀とその妹の皇太后の梁?によって反対を押しのけ擁立された。即位後は質帝の代と同様に梁冀の専権が続き、梁冀は妹の梁女瑩を桓帝の皇后に立て、一族から7封侯・3皇后・6貴人(妃の位)・2大将軍を輩出し、梁氏最盛期を現出した。梁冀は李固を殺害するなど、反対者に対する弾圧を強めた。
この専横に反発した桓帝は、宦官の単超らの助力を得て梁冀の邸宅を包囲して誅殺、一族もほぼ全員に当たる300名以上が粛清され、多くの者も免職となり、そのために朝廷が空になるほどだったと史書は伝えている。
梁冀粛清後に親政を始めると、功労者の単超を2万戸の侯に封じ、その他の宦官たちに対しても恩賞を与えた。梁冀の専横は排除したが、この政変により今度は宦官たちに権力が集中することとなる。宦官に養子を認め、財産相続を認めたことにより世襲貴族を志向する者も現れるに至った。この時期に権勢を誇った宦官に、魏の太祖曹操の祖父曹騰もいる。 宦官による政権掌握に不満を抱いた外戚・豪族勢力は、宦官を儒教的に穢れた存在として対抗。宦官を濁流、自らを清流と称しての政争が始まる。 延熹2年(159年)、河南尹李膺が宦官の犯罪を摘発しようとしたところ、逆に投獄される事件を契機に、宦官勢力は豪族たちを党人、徒党を組んで政治を乱す者と見做し弾圧を行った。李膺は後に許されて司隷校尉となり、宦官を恐れず摘発したことで名声を高める。その後、清官として名声があった陳蕃と共に太学(大学)の学生達の支援を受け、両者は宦官への糾弾を開始するが、延熹10年(167年)に宦官達はこれに大規模な弾圧で対抗した(党錮の禁)。 党錮の禁で逮捕された人数は200人に及び、逮捕者は無罪とされた後も免職され以後の仕官の道が閉ざされた。この処置は清流派の強い不満の原因となり、清流派の代表である李膺・陳蕃の名声は益々高くなった。桓帝崩御後には、陳蕃による宦官誅滅作戦が行われたが失敗。再び宦官達による弾圧(第二次党錮の禁)が実施され、清流派と宦官の対立が益々深まることになる。 宦官の専横が後の黄巾の乱の要因となり、豪族と宦官の対立が黄巾後の戦乱の時代を生むことになった。桓帝の時代には後漢の滅亡の要因となる清濁の争いの原因が形成された時代である。 特筆すべき事例として、延熹9年(166年)に大秦(ローマ帝国)国王安敦(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使節が入朝している。
党錮の禁
永康元年(168年) に36歳で崩御した。
宗室【後漢王朝系図】(編集
長沙王
劉発
更始帝
劉玄 斉王
劉? (1)光武帝
劉秀
東海王
劉彊 (2)明帝
劉荘
(後3)章帝